ベルサイユのばら

 

 ――こんな人は、知らない。

 舞台袖から現れた、ひとりのダンサー。(中略)

 疑いようもなく、男の肉体だ。ほかの男性ダンサーよりも小柄だが、首は太く、身を反らすと喉ぼとけがくっきりと浮き上がる。太腿もふくらはぎも、遠目に見ればしなやかな曲線を描いているが、オペラグラスを向ければごつごつとした筋肉が目立つ。その太腿の間の青いひし形もようは微かにふくらんで、自身の肉体的な性別をまざまざと証明している。ボックス席の乙女が、気づいてしまった自分を恥じて、そっと睫毛を伏せる程度には。

 それなのに。口元の艶やかな薔薇色の微笑みは女そのもの。腕の動きはなめらかで、ときおり、しなをつくるように手を客席に伸べる。柔らかく膝を落としたかと思うと、次の瞬間には床を蹴って飛翔する。指揮棒が、オーケストラが、客席が、はっと息を呑み、天を仰ぎ、世界が鼓動を止める。

 ――こんな自分は、知らない。(中略)

 もしそれが21世紀であれば。

 そのことばもまた、「尊い」「しんどい」「無理」「待って」と同じ、極度の感激をあらわすことばとして発されただろう。

 

 だが、ときは1912年だった。そして彼女は1891年生まれの21歳の女性ロモラ・ド・プルスキーだった。言霊が暴発する条件は揃っていた。万雷の喝采を受け、腕を翼のように天高くひろげ、白鳥が嘴を湖面に浸すように身をかがめる、その男とも女ともつかない異形のきらめきを、ただなんとか理解して安心したいという衝動に駆り立てられた彼女は、ロベルト・シューマンの愛の調べを胸にかき抱きながら、取り返しのつかない一言を世界に放った。

「結婚したい……!!

 

「女性の身体は美しい。男性の身体は醜い」。

 それまでのパリのバレエ・シーンといえば、エドガー・ドガの《踊り子》の世界そのものだった。舞台はすべてパトロンの物色のためだけに奉仕する、「こうして堕落の一途をたどっていった」世界が、ロシアより舞い降りたるバレエ団と、そのエトワールである「ひとりのダンサー」によって更新される。

 その「舞踊の神」の名をワツラフ・ニジンスキーという。

 特権階級限定のクローズドなど遠い昔、ライブを観たければ金でチケットを買えばいい、この近代自由主義経済下で、例えばフランツ・リストの超絶技巧が数多の女性客を失神へと誘っていたように、追っかけとでも呼ぶべき消費行動の原型など当時において既にそう珍しいものではなかった。

 舞台上の貴公子に「結婚したい……!!」と羨望の眼差しを注ぐ女性は――あるいは男性も――、他にだっていたかもしれない。しかし、このロモラのケースは少しばかり訳が違った。まず、このハンガリーのお嬢様の家柄には斜陽といえど名声があった。ほぼ未経験にもかかわらず、今ならば研修生とでも呼ばれる程度の立場を買える、なけなしとはいえ金があった。行動力と情念だけではどうにもならない、「プティ」とお近づきになるためだけにバレエ・リュスに忍び込める各種資本が彼女にはあった。

 もっとも肝心の彼は、南米への船旅の最中でさえも、ロモラに一瞥すらくれようとはしなかった。彼女は猜疑に駆られる、「そもそも彼は、他人全般に興味がないのかもしれない」と。「舞台の上では神。舞台を降りればコミュニケーション下手なマイペース男子」、それゆえにこそ放たれうる超然とした気品こそが、彼を彼たらしめているのかもしれない、と。

 そうして失意の淵にあった「まるで少年のよう」な彼女は、ところがある日、他人を介して彼の真意を知るところとなる。

「ロモラさん。ことばの問題で、ニジンスキーはあなたと直接お話ができません。でも彼は、こう伝えたいとわたしに頼んできたのです。

 あなたと結婚したい、と」。

 

 私は神がかりではない。私は愛である。私は神がかり状態の感情である。私は愛の神がかり状態である。私は神がかり状態になる人間だ。私は言いたいが、言えない。書きたいが、書けない。私は神がかり状態なら書ける。私は感情を伴った神がかり状態だ。そしてこの神がかり状態のことを理性という。全ての人間は理性を備えている。理性を失いたくない。だから、すべての人が感情の神がかり状態になることを望む。妻は粉薬のせいで神がかり状態にある。私は神によって神がかり状態にある。神は私が眠ることを望む。私は眠り、書く。私は座って、眠る。私は眠らない。書いているから。人は私がばかばかしいことを書いていると思うだろうが、私の書いていることには深い意味があると言わなくてはならない。私は分別のある人間だ――

 神がかりなの? 神がかりじゃないの? 眠るの? 眠らないの? あれ、この人、何語喋ってるのかな、ついに脳みそのネジが取れちゃったのかな、とでももしかしたら少しくらいご心配いただけたかもしれない。大丈夫、だって私は私ではないから。

 実は、この上記数行は『ニジンスキーの手記』からの引用によっている。現代においてなお彼の名が広く語り継がれる理由のひとつは、陰謀論あり、被害妄想あり、内攻あり、全能感ありのこうした狂気のフルコースにある。今日ならば例えば統合失調症とでも診断されるようなこれら典型的な症例が果たして何に由来するのかを決することはもちろんできない。第一次世界大戦をめぐる危機と恐怖が彼をそうさせたのかもしれない。明日をも知れぬ経済的な苦境が彼の神経を責め苛んだ結果なのかもしれない。しかし、ワツラフを引き裂いたその強力なトリガーのひとつが、バレエ・リュスのファウンダー、セルゲイ・ディアギレフによって引かれたことにもはや疑いの余地はない。

 本書が上梓されたのは20235月のこと、そしてその原型となったウェブ連載は2021年に記されたという。いかにも数奇な時宜を本書は得てしまった。ディアギレフとニジンスキー、プロデューサーと美少年の間にあった性加害関係を、ジャニー喜多川による国連作業部会曰く人類史上最悪規模の虐待行為と紐づけせずに読み解け、という方が今や無理筋なのである。

 ましてや本書のもうひとつの推しの舞台はタカラヅカ、その異形性についても、あるいは報道に触れずとも、誰しもが薄々ならず気づいていた。阪急の駅のプラットフォームにて、髪をきつく結ったうら若き女性が滑り込んでくるマルーン・カラーの車体に向かって直立不動からその後直線的に首を垂れる。よく言えば凛とした、ストレートに言えば寒気がする、その過剰に強迫的なしぐさを一目見れば、誰しもがそこに軍隊的な規律の臭気をかぎ分けずにはいられない。そして異形が異形なればこそ、彼女たちは他を圧倒するブランドを獲得できた。

 同性間ゆえにこそ放たれうる何かを無邪気にも推すことのできた時代があった、そんなノスタルジーの残照として、たぶん本書は読み換えられる。

 

 テキスト終盤、歴史の奇遇に思わず私の腰が浮く。明石照子に魅せられた老境のロモラが、日本語の家庭教師を依頼したのは、チューリッヒに留学していたひとりの精神分析学者だった。その名を河合隼雄という。彼女はある日、河合に向けて打ち明けた、とされる。

ニジンスキーは、ディアギレフとの同性愛関係を保つことによって踊り続けることができていたのではないかと思うんです。あのふたりの間にわたしが割り込んで結婚したせいで、彼は病におかされてしまったのでしょうか」。

 彼女がひときわ未来の伴侶に惹かれるようになったそのきっかけは、『薔薇の精』におけるヰタ・セクスアリスなその場面、「音楽が終盤に至るころ。ニンフが落としていったスカーフを拾った牧神は、いとおしそうにそのスカーフを抱き、岩の上に広げて置いた。そして、自分の身体をスカーフの上に横たわらせたかと思うと、両手をうつ伏せの腰の下にはさみ、ふいに全身をびくりと震わせ、身体を弓なりに逸らす」、この「明らかに性的な慰めの表現」だった。

 ロモラはこのシーンを単に聴衆のひとりとして眼差さなかった、彼女はこのエクスタシーの瞬間にニジンスキーという男根の所有者に明らかに同化していた、どうかしていた。「結婚したい……!!」その願望を果たすことは、つまり彼と性交渉を持つことだった、そして実際にふたりの女児を授かりもした。観客席の彼女が絶頂のその瞬間に思い描いていた未来は、しかし実際に訪れたとき、たちまちにして幻滅に変わる。「まるで少年のような」彼女は自らをニジンスキーに憑依させる、その限りにおいて彼を愛した。それは例えば三島由紀夫『夏子の冒険』に果てしなく重なって、愛される客体を担わされた瞬間に愛する主体への思いはすべて霧消する。やがて彼女がフレデリカ・デツェンチェを求め、さらに明石照子に「結婚したい……!!」を覚えたのは必然だった、そしてその夢から冷めてしまうことも。

 ここで河合の師事したC.G.ユンクのアニマ‐アニムスを引き合いに出すことはたぶん逸脱ではない、が、それは脇に置こう。さらに本書固有のロジックとして、ロモラの自裁した父への思いを原型に置いて、というエディプス・コンプレックスの再生産論は、たとえ本書の核をなすウェルメイドなトピックであったとしても、あえてここでは繰り返さない。

 ここで改めて確認しなければいけないのはひとつだけである、つまり、人間が人間を「推す」という消費行動が、あるいはすべての人間関係という営みが、結局のところ、具体的にも抽象的にも、性的搾取を媒介させることでしか成り立たない、というその退屈さについてだけである。バレエ・リュスを推すことが、ジャニーズを推すことが、タカラヅカを推すことが、今となっては果たして何を意味しているのか。

 

 ニジンスキーとロモラも暮らした第一次世界大戦下のオーストリア・ハンガリー帝国を舞台に描かれた未完の超大作、ロベルト・ムージル『特性のない男』の一節、ひとりの数学者が新聞記事のとある文句に打ちひしがれて、ただちにひとまずの休暇に入ることを決意する。彼を驚愕させたのは「天才的競走馬」というフレーズだった。

 ニジンスキー、ヌレイエフ、リファール、バランシン――

 こうしたワードにバレエ周辺とはまるで別の仕方で脊髄反射してしまう一群が、この世界にはある。すなわち競馬である。何の因果かNorthern Dancerと名づけられた一頭の歴史的大種牡馬は、その連想からバレエにまつわる人物や用語にその命名の由来を持つ末裔を数多輩出した。

 カナダで生まれたその大傑作にNijinskyという名があてがわれたのは、もはや必然だった。

 そして19966月の府中の杜でその奇跡は起きた。遠くイギリスはエプソムにてNijinskyを父に持つ栗毛の「天才的競走馬」がキャリアわずか1戦にしてザ・ダービーを制してから1年、今度は父の父にNijinskyを、そして奇しくも母にBallet Queenを――さらにその父は劇場名Sadler's Wellsにちなむ――持つ「天才的競走馬」が、音速の末脚をもって歴代最短わずか3レース目にして日本ダービーを制した。途方もない才能と、その代償としての美しくもひどく脆い肉体のトレード・オフは、おそらくはその近親交配に起因していた。

 それから10年余りの時が流れ、私の前に新たな推しが現れた。このNijinskyの孫の再来は、ただし今度は植物の姿をまとって舞い降りた。2013年の晩秋にホームセンターの片隅で出会った見切り品のその苗は、杜撰な管理で痛めつけられ、いかにも弱々しく、ほとんど枯れかけとすら映った。でも。――こんなバラは、知らない。そうしてなぜかの一目惚れとともに私に買われていったその株は、耐病性や耐虫性、耐暑性にはひどく劣り、それにもかかわらず勇壮な枝ぶりと真紅の大輪と、さらには気品あふれるフレグランスをもって庭の王者として君臨し続けた。継続性なんていらない、瞬間最大風速さえあればいい、エクストリームなトレード・オフを内包したそのバラは、最愛のサラブレッドを果てしなくなぞっていた。

 美少女への擬人化をもって推しという名の大衆からの課金を獲得した『ウマ娘』とやらとは明白に違う。この気高きバラを前に、馬を前に所詮ポルノを消費することしかできない人間とかいうクズコンテンツを経由させて貶める必要などひとつとしてない。フサイチコンコルドはパパメイアンに限りなく似て、パパメイアンはフサイチコンコルドに限りなく似ている。そして同様に、暴君のごときその佇まいに鮮烈な血の紅が差すニコロパガニーニオルフェーヴルに限りなく似ている。

「しなやかで……/猫のようで……/いたずらっぽくて……/キュートで……/羽根のように軽く……/鋼のように強く……」、こんなパワーワードのインフレーションでいかに塗り固めてみたところで、たかが人間である。幸福にも映像記録をひとつとして残さなかったワツラフ・ニジンスキーのバレエを仮に拝むことができたところで、私はそこに幻滅しか覚えない、なぜならたかが人間だから。ベッド上のニジンスキーに対してロモラはどこまでも不能だった、なぜならたかが人間だから。推しなんてどこにもいない、なぜならたかが人間だから。

 奇しくもニジンスキー大先生が、こう書き残していらっしゃられるではないか。

 私は人生が何であるかを知っている。生は「ちんぽ」ではない。「ちんぽ」は神ではない。神はたった一人の女と子どもをたくさん作る「ちんぽ」である。私はたった一人の女と子どもを作る男だ。私は29歳である。私は妻を愛している。子どもを作るためではなく、精神的に愛している。

 もちろん、妻ロモラにこの叫びが届くことはなかった。

 

 それでもなお、そんな世界を生きていく。

「すべての人間には、自分の人生を耐え抜くために、できる限り自身を整えるという大事な権利と義務があると思うの」。

 束の間のトランスとトリップのその引き換えに、今日も誰かが課金とともに誰かを生贄に差し出す残虐極まるその行為を推しという美辞麗句のオブラートとともに消費していく。「自分の人生を耐え抜くために」誰かが誰かを骨の髄まで貪り尽くす、人肉を食らうカーニヴァルとしての世界はこれからも続いていく。

 ああよかった、こんないかなる視線にも堪えないグロテスクな汚物の行列に並べるほど浅はかじゃなくて。

 

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アメリカのデモクラシー

 

 1949年から、アメリ陸軍省アメリカ政府の軍事予算を用いて、沖縄の若者を対象にアメリカの大学で学ぶための奨学制度を実施した。……この留学制度は、1970年が最後とされたが、毎年、少なくとも20名、多い年には90名近くの沖縄の若者が大学で学ぶためにアメリカへ渡った。……

 アメリカに留学した者たちを指す「米留組」という呼称は、アメリカ統治下の沖縄を生きる人々にとって、特殊な眼差しや感情を表現するものであった。

 特に、日本への復帰運動が激しさを増す1960年代の沖縄において、「米留組」に対する風当たりは厳しく、「向米一辺倒」や「米軍の親衛隊」と呼ばれた。つまり、「米留組」という言葉には、政治色を帯びたステレオタイプが含まれていたのである。……

 本書は、戦後の沖縄からアメリカに留学した若者――「米留組」と呼ばれた人々――についての物語である。「米留」制度がアメリカの対沖縄統治政策においてどのように位置づけられていたのかを、アメリカの公文書館所蔵の一次史料から明らかにし、留学経験者たちのライフストーリーを通して、当事者の視線から「米留組」の軌跡を辿る。

 

「米留組」の沖縄社会における位置づけを象徴する、とある歴史的な事件がある。

 それは1963年の出来事、時の高等弁務官ポール・キャラウェイは、「米留組」の親睦団体である「金門クラブ」の講演に招かれる。その席上、「琉球政府で働いていた琉球人は効率性に欠け、また無責任である」とこき下ろす傍らで、米留組の「諸君はもはや、琉球列島での指導者」であると褒め殺してみせた。まさにこの場で飛び出したのが、「現時点において〔沖縄の〕自治は神話である、自治は存在していないAutonomy at the present time is a myth; it does not exist」との発言だった。

 もっとも、この反共主義者の言説の是非はここではひとまず脇に置こう。今着目すべきは、彼がこのテーゼを掲げたのが他ならぬ「金門クラブ」であったという点である。このことがいみじくも米軍と沖縄の特異点としての「米留組」をクローズアップさせる。

 紛れもなくこのキャラウェイ流のTPOは、アメリカ側から見た「米留組」への意識の反映だった。この留学制度は「琉球の若い男女を海外で教育し琉球の専門的な役割を担わせること」を趣旨に設けられた。それは少しばかり悪趣味な見立てをもって言い換えれば、「反共産主義の要」としての沖縄を担える、トロイの木馬を養成する試みであった。地上戦の舞台となった焼け野原から、かつての敵国本土へと渡る、その落差は必ずや彼らに衝撃を与えずにはいない、いや、民主主義陣営のとりことして魅了されずにはいないだろう。そうして感化されたエリートたちがやがてはアメリカと一心同体の理念を掲げて、冷戦の闘士を担ってくれよう、そのことは事前に行われた思想調査からしても明らかで、それが彼らの意図した「自治」だった。

 

 しかし「米留組」の見たアメリカは、当人たちの自画像とは大きく隔たるものだった。

 そのひとりは「ワンダーランド」の夢が打ち砕かれるショックを綴って言う。「アメリカの民主主義の精神を学びにきた留学生にとって、その矛盾[人種差別や経済格差]は、アメリカ的生活様式のすべてを拒絶させるほどの絶望を招くものだった」。

 確かに「アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ」には、「終戦直後の沖縄での貧しさが吹き飛んでしまいそうな感動」や「桁外れの豊かさ」があった。「初めて見た水洗トイレの、溜まっている水で顔を洗ってしまったこと。チャイナタウンからの夜道、校内近くの道路脇で立ち小便をしているのを警備員に見られ大騒ぎになったこと。シャワーを浴びるのにカーテンをバスタブの内側に入れるものだと知らず、シャワーの水で部屋中を水浸しにしてしまったこと。サラダが出てきて、野菜を生で食べさせるなんてウサギと思われていないかと驚き、食べなかったこと。ピッチャーに入っている牛乳を飲みすぎてお腹を壊したこと」……その何もかもがカルチャー・ショックだった。

 しかし他方でその「絶望」に打ちひしがれた者もあった。軍用船に揺られて大陸を渡る、その旅路からして既に「屈辱」ははじまっていた。「船室は、エンジンやスクリューの音が鳴り響き、狭く暑苦しい場所だった。……食事は狭いスペースでの立食で、棚の上から食器が滑り落ちないように手で押さえつけながら食べた。/……早朝から寝棚周辺や娯楽室の掃除をさせられ、それを将校が検査をし、掃除が行き届いていなかったらやり直さねばならなかった」。学費のために「朝6時から夕方6時まで、およそ12時間も苺畑の畝と畝の間をしゃがみ、小さな輪のついた板車に乗せた箱にへたや茎をつけたまま苺を摘んで入れ」ていった青年は、「この調子だとさつま芋だけ食っても沖縄がよかったのではと本気で思ったこともあるほどだ」。南部ルイジアナに送られた別の者は、「アフリカ系アメリカ人の友人と本屋にいる時に、『有色人種は出て行け』と言われたこともある。本屋の店主は、……『周囲の人が嫌がるから連れてくるな』と言い放った」。

 それは何より彼らに自らのアイデンティティを自問自答させる経験であった。ある者は自己紹介の際に「OKINAWAJAPANではないと言われてしまった」。本土から留学してきた「日本人学生に『アイヌと同じ人種でしょうか』と聞かれることもあり、……日本人との付き合いの中で、沖縄とは日本人にとってそれだけの認識しかないのかと思い、同時に『日本人』としての自己認識を拒絶されたように感じたのだ」。

 

 矛盾に苛まれながら、それでもなお、「米留組」にとってアメリカは民主主義への覚醒を誘わずにはいなかった。

 ひとりの女性留学者は、軍用の飛行機でサンフランシスコに降り立った時に目撃したある光景に驚愕する。「白人の男性がエアポートのフロアーを掃いていたんです。その時ですね、私は白人の男性でも掃除するんだと思いました」。何よりも彼女に衝撃を与えたのは、「自己の内面にある無意識の人種とジェンダーヒエラルキー」への気づきだった。「沖縄の基地では、自分の家に沖縄の女性をメイドとして雇い、ミシンを踏ませて洋服を作らせる。また沖縄の男性を庭師として雇う。彼ら(アメリカ人)はのほほんと生活しているんですね。……洗脳されていたんです」。

 沖縄県知事を務めた大田昌秀は、この地での出会いが「その後の私の人生における最大の財産」と述懐する。「ある日、『デイリーオレンジ』という大学が発行する新聞の記事で、ある犯罪事件の加害者が黒人であったことが強調して書かれていた。白人の時は白人と書かない。メキシコ人の友人と一緒に抗議しようという話になった。クラスでもそのことについて議論し理解を得た。授業後、新聞部に足を運び抗議すると、編集スタッフは彼らの意見に理解を示した。『黒人』という表現を消すことができたのだ。『そういうことができるのがアメリカの良いところ』だと気づいた。その経験は、大田さんにとって、アメリカ社会における人権をめぐる抗議の申し立てとその成功体験であったのだ」。

 そもそもからして「沖縄には、琉球王国時代より『留学』を通じて海外からの先端知識を得ながら、社会を形成してきた歴史がある。/……沖縄にとって『留学』は、中国、日本、アメリカなどとのかかわりの中で社会形成をする過程においての重要な装置となってきた」。彼ら「米留組」は、その歴史の正当後継者としての顔を持つ。

 かのアレクシス・ド・トクヴィルは言った。「一国についてしか知らぬ者は、実はその一国についてすら知らない」。戦後において「ワンダーランド」を踏みしめた彼らは、その経験を通じて、まず何よりも沖縄を知る者として帰還した。それはもちろん、単にエドワード・サイードの云うオリエンタリズムの視点を獲得するのとは別の仕方で、ましてや米軍の企図とは別の仕方で、むしろその非対称性に彼らはおそらくは他の誰よりも自覚的だった、いや、自覚的にならざるを得なかった。

 当時「金門クラブ」の会長を務めていた川平朝清は、キャラウェイの回し者と糾弾されるその渦中に会の意義を宣誓した。「私たちは、英語という言語能力を使って、琉球人を代表して発言することを決して忘れません。同時に、私たちは、アメリカの政権や政策の良いところを、公正且つ適切に表現できるだけの自信を持つべきです」。

 

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エデュケーション

 

 本書では、日常、茶飯、女性をキーワードに据え、日常茶飯の様々な局面において、人びと、とりわけ女性たちが「生きる」ことについて、これまでどのように向き合ってきたのか、そして向き合っているのかを問うことを目的とする。そしてその向き合い方は、時代によって、地域によって、産業によって共通点があるのか、それとも相違点があるのか、ということを考えてみたい。

 その問いに答えるために、今から1世紀以上前に遡り、日本とアメリカの産業革命期に関する資料の中で私が出会った女性たちを通して、産業革命期を生きた人びとのライフヒストリーと激動する社会の様相を重ね合わせながら、その関係を論じていく。一見、些末に見える日常茶飯の場面でも、レイヤーとして重ねていくことで、複雑な社会や人間関係が浮き彫りになることがある。……

 アメリカ合衆国で展開した……女性の社会への働きかけや思索と実践は、それを直接見聞きしていた日本人留学生の女性たちによって日本でも試行された形跡がある。ところが、彼女たちの内面に育まれた新たな社会への渇望と希望は歴史に埋もれて忘れられ、再評価されることなく現在に至っている。「わたし」を獲得するために奮闘し、葛藤した数多の女性たちのライフヒストリー、未だ語られてこなかったこのダイナミックな「斗いの歴史」を、日米女性の思考の交流史として読み解いていくことにしよう。

 

 このテキストの中で、とある意外な史実が紹介される。

 1918年夏、魚津にてはじまったいわゆる米騒動がそのトピックである。投機筋がシベリア出兵に乗じて米の買い占めに動いた末に、家計を預かる女性たちが価格の高騰に面して怒髪天を衝きついには暴動へと至り、次いでその報道を受けるや否や、富山を起点に全国各地へと燎原のごとくその輪が広がっていった、として通説的には語り継がれる、「民衆暴力」の発露とも呼ばれるべきあの出来事である。

 しかし「無知で貧しい人びとが起こした恥ずかしい騒ぎ」というこの評価は、近年の各種史料の見直しによって、著しく見当違いなものであったことがどうやら明らかにされつつある、という。当時の女性たちは、暴力になど訴えてはいなかった。明治期に魚津の議会で既に議定書が交わされていた貧民救助制度の発動を求めた嘆願であり、そして結果、「魚津の米騒動は話し合いで済んだがやちゃ」。幕末期から既にこの地では伝統的に、生活苦に面して「単発の一揆や騒動ではなく、地域の歴史に培われた女性による一種の長期的、定期的な社会運動」が営まれており、この折に際してもその平常運転が作動していたに過ぎない、というのがどうも真相らしい。彼女たちは締結済みの同意を武器に無血で米を勝ち取った。

 もっともそうした指摘は、長きに渡って黙殺された。全国的な暴動の広がりによって遡及的に、その震源地においても根底から意味が書き換えられた。つまりは、「魚津の米騒動がいつの間にか都市の男性が語るマスター・ナラティヴに回収されていった」。

 

 別に、本書のほんの一部を構成するに過ぎないこのテーマにばかりフォーカスを当ててレヴューと代えるつもりはない。あえて長々と取り上げたのは、実態を遊離していく魚津をめぐるこの上書きの指摘こそが、逆説的に本書のサマリーを構成してしまっているのではなかろうか、という疑念がどうにも離れないゆえである。家内制手工業からマニファクチュアの集約労働へと移りゆく社会の中で、それに翻弄される日米それぞれの女性たちをつなぐミッシング・リンクを再発掘せんとする本書の「マスター・ナラティヴ」によってそもそものムーヴメントの意味が根本的に更新されていくというその図式が、米騒動をめぐる一連の語られ方とあまりに重なり合ってはいないだろうか、という疑問がどうにも頭をもたげてしまうのである。

 

 私がこのテキスト内にてたまらなく興奮を誘われたシーンがある。それは高井としを『わたしの「女工哀史」』から引用される一節。自らが勤める工場で立ち上がったストライキの決起集会、参加こそしてはみたものの、講演で語られるテーマは「むつかしい話が多く、私たちはぽかんとした顔でき」くばかり。その最中、矢も槍もたまらず彼女は壇上に立ち呼びかける。

「みなさん、私たちも日本人です。田舎のお父さんお母さんのつくった内地米をたべたいと思いませんか。たとえメザシの一匹でも、サケの一切れでもたべたいと思いませんか。街の人たちは私たちのことをブタだ、ブタだといいますが、なぜでしょう。それはブタ以下の物を食べ、夜業の上がりの日曜日は、半分居眠りしながら外出してのろのろ歩いているので、ブタのようだというのです。私たちも日本人の若い娘です。人間らしい物をたべて、人間らしく、若い娘らしくなりたいと思いますので、食事の改善を要求いたしましょう」。

 この「どこか他人事のいわば『大文字』の議論ではなく、日常茶飯に目を向けた『等身大』の抗い」は、その日「一番よく拍手をいただきましてね」。

 この「等身大」性こそが共感を呼んだ、「わたしたち」を作り出した。奇しくもcompanyの語源は、ラテン語com-panis、つまりは共に‐パン(を食らうこと)にある。日本語に直訳すれば同じ釜の飯を食らうこと、お仲間とはすなわち同釜に他ならない。同じ「ブタ以下の物を食べ」させられて酷使された同士ゆえにこそ、はじめて生まれたシスターフッドがある。勝手口からはじまった魚津の社会活動にしても、全く同じことが言えるのではなかろうか。

 そもそもの話として、なるほど確かにアメリカとの接点がなければ、産業構造の転換もなく、ストライキもなく、従って高井の名演説も生まれ得なかった。女工の悲哀に一脈ならず相通じるところもあろう。しかし「日常茶飯」が催した親密性のサークルに対して、アメリカにおける「わたしたち」の連帯の歴史を持ち出したところで、むしろここでは「『大文字』の議論」としてしか機能しない。無知な彼女たちがそんなことを知っていたわけがなかろうなどとあざ笑いたいのではない、「等身大」をはぎ取る作用しか果たしていないようにしか感じられないのである、それはあたかも、米騒動のマスター・ナラティヴが魚津の人々の「等身大」を消し去ったのと限りなく同じ仕方で。

 「日常茶飯」という一回性の消え物に端を発する出来事が、実は一回性ならざる重層性を秘めていた、というその論旨は分かる。しかし、あえて「焼き芋」であること、あえて「ドーナツ」であること、あえての一回性ゆえにこそ生まれているライフヒストリーのきらめきが捨象されているというのは、単なる私の誤読にすぎないのだろうか。

 ソクラテスの産婆術そのまま、眠れる理性が起動する、そこにこそeducationの本義がある。たかが「焼き芋」だからこそ、たかが「ドーナツ」だからこそ、そこに萌え出る「わたし」がある。

 

 パンがなければケーキを食べたらいいじゃない?

 今なおバズり続けるこのキラー・ワードは専らマリー・アントワネットの言として語り継がれる。ジャン⁼ジャック・ルソーに典拠するこのフレーズを果たして彼女が本当に吐き捨てたのか、は重要ではない。ここで着目すべきは、この破壊力がパンという「日常茶飯」なるがゆえにこそ宿され、今日の人々の胸にすらも深く突き刺さる、というその事実である。

 そしてその当のルソーは、社会契約の基礎を「憐れみpitié」に置いた。深遠なる理想やヴィジョンという「大文字」の何かではなく、不条理をめぐる痛みの共有のみが、ポスト独裁、ポスト寡頭の政治体を可能にする、それが彼の洞察だった。他でもなくパンを取り上げたその霊感の持ち主は、「憐れみ」の根底に必ずや「日常茶飯」を見ていた。

 

 女性たちが手を取り合う連帯は舶来概念ではない。「日常茶飯」がたまらなくそうさせる。

 

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合理的配慮

 

 テレビから女性キャスターの〈速報です〉との声が聞こえ、舞はトーストをもぐもぐ咀嚼しながら目をやった。

〈昨夜未明、兵庫県神戸市北区にある神戸拘置所に収監されていた少年死刑囚が脱走したことがわかりました。少年は今から約1年と半年前、当時18歳のときに埼玉県熊谷市に住む一家3人を殺害した罪で、死刑判決を受けていました。なお、脱走した少年は現在も捕まっておらず、警察は全力で少年の行方を追っています〉……

「そういえばこの犯人、自分を褒めたいとかって言ったんじゃなかった?」

 母が思い出したように言った。

「褒めたいって?」舞が訊く。

「死刑判決を受けたときに、犯人の男は法廷でこう言い放ったんだよ。『自分を褒めてやりたい』って」

 父が吐き捨てるように言った。

 

 以下、壮絶にネタバレヴューをする。

 以下、壮絶にブチキレヴューをする。

 

 本書は、三人称目線から、犯行当時18歳の死刑囚、鏑木慶一の逃避行を追う。

 あるときは東京オリンピック前夜の飯場に住み込み、あるときはグループホームで介護スタッフに従事し、またあるときは新興宗教セミナーに潜入する。

 この小説が出版されたのは、20201月のことだという。コロナを知らないこの幸福な世界線は反面、今日の視線からはさる指名手配爆弾魔の最期や新興宗教に起因する暗殺事件を想起させるような、どこか預言の書としての香気をまとわずにはいない。もっとも、図らずも帯びてしまったこの時事性にたまさかの偶然という以上の意味はなく、何をどうこじつけようともオカルトのトンチキ悪ふざけの他に何が生まれることもない。

 それはさておき、鏑木の一連の旅路には単に死刑執行のその日を免れるという以上の意味があった。これがプロットの根幹で、つまりは冤罪を被らされた彼が、事件の真相を白日にさらして汚名を雪ぐ、ということなのだが、この仕掛けが残念ながらあまり機能していない。

 なぜなら、それでもボクはやってない、というギリギリまでぼやかされつつ展開していくこの核心が、文体からしてあまりに自明なのである。この偽名での逃避生活が、本当は偽名でもなんでもなくすべて赤の他人によるものでしかなく、この桜井なり袴田なりが鏑木のなりすましだって言いましたっけ、というようなアホくさい叙述トリックの具に堕していないだけ潔くはある。がしかし、頭脳も明晰で、倫理観にもすぐれ、そして勇敢で、おまけに国宝級イケメンというこの完全無欠のスーパーヒーローが、これだけの紙幅を費やした末になんと、己の無辜を証明するために着実に段階を踏みながら奔走していたんです、と言われても、うん、だってはじめからそういうキャラクターとして組み立てられていますものね、としかなりようがない。ならばいっそ、彼の視線からタクティクスを可視化してくれた方が読む側にとってはスリルも生まれていたかもしれない。

 鏑木が日々の生計をつなぐために潜り込む現場というのは、いちいちの身元証明や社会保険を要求されることもないような、つまりは日本社会の最底辺の労働環境である。サスペンスの牽引力にかこつけて、そうした地獄巡りをドキュメンタリー的に見せていく松本清張チックな手法を取り入れることもあるいはできたかもしれないが、そこに丹念な取材に基づくリアリティまでは感じられない。

 そうして鏑木に代わって差し出される真犯人にしても、物語の幕引きのために調達されたご都合主義的存在でしかなく、読者の膝を打たせるような謎解き要素がその導出に横たわっていたとは見えない。

 

 つらつらと羅列してはみたものの、ここまでのトピックなど些末なものに過ぎない。

『正体』がはらんでいる少なくとも私にとっての最大の疑問点は、通俗道徳の罠である。

 この小説の実のところの最高の見せ場は、逃避行の中で死刑囚に救われた人々が立ち上がって、司法によって一度は判決が確定した彼のためにその疑惑を晴らす、というところにある。むしろ事件はサブストーリーに留まり、いわば改心を促した鏑木慶一の聖人伝、使徒行伝とでも読み替えられるべき性質のものである。さらにラディカルに変換すれば、善行を積み重ねていれば誰かが必ず報いてくれる、報いられないとすればそれは単にあなたの努力が足りないから、そんな通俗道徳を布教するための書である。

 刑事司法の問題、社会システムの失敗を個人の倫理にすり替えられても、だからなんだよ、としか言いようがない。鏑木が救済されるべきなのは、彼が秀でた人格の持ち主だからではない、単にその死刑判決が事実誤認の冤罪に由来するからである。たとえその被告人もしくは受刑者がどんなに腐り果てた人間性の持ち主であったとしても、万人の目に犯行を疑う余地がないとしても、それはそれ、誰にでもデュー・プロセスの中で守られなければならない人権がある。

 昨今語られる社会福祉のキーワードに、困っている人は困った人、というフレーズがある、らしい。つまり、個人的な関係性からハブられた鼻つまみ者(=困った人)が、往々にしてそのセーフティ・ネットの欠如ゆえにこそ困窮状態に陥らざるを得ないというそのジレンマを指している。普通に考えたら助ける気も起きないような、その彼なり彼女なりが保護されるべきなのは、決して人格への報酬としてではない。ズルいわけでもない、わがままなわけでもない、甘やかされているわけでもない、人が人であるがゆえにこそ、「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有」している、その反映に過ぎない。鏑木に真実を明らめる機会としての法廷の場、再審請求が与えられねばならないのは、彼の篤実な人格に認められたリワードではない、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない」その行使に過ぎない。いかなる重大案件が発生しようとも、「何人も、自己に不利益な供述を強要され」てはならないし、「自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられ」てはならないし、「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁」じられねばならない。

 ところが、今日の世論ならばためらいもなく言うだろう、たとえ冤罪をかけられても、クズがクズであるがゆえの自己責任だ、疑われるには疑われるなりの理由がある、疑う側にも疑うなりの事情がある。「10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜を罰すなかれ」なんて建前で、凶悪犯罪の早期解決のため、検察延いては国家の威信のため、時に犠牲は付き物なのだ――

 彼らは自らに火の粉が降りかからぬ限り、いかなる生贄も辞さない。

 

 たぶん私が何かしらに過剰反応を来たしているだけなのだろう。車椅子のユーザーに利便性を認めるのはあくまで健常者様からの特別な思し召しでしかなくて、障害者たるものすべからく謙遜や慎みとともにその生を営むべしとでも咎めるような、座敷牢の時代から何ひとつ変わらない愚かしい通俗道徳に対するフラストレーションが八つ当たりのように本書に注がれているだけなのかもしれない。

 しかし、私はこのレヴューを我田引水だ、牽強付会だ、全くの誤読だ、などとはやはり考えることができない。

 本書の中で鏑木のために、鏑木に代わって立ち上がる人というのはそのことごとくが、実生活において彼と接した経験を持ち、なおかつ何かしらの恩義を感じる者に限られている。つまりこの世界線の中では、その外側の人々に鏑木の「正体」が全く届いていない。双方ともにその判断を日々の暮らしの具体性にしか由来させることができない。そこに半径数メートルのソーシャルはあってもコモンはない。体験を伴わなければ、彼ら忠実なる臣民は、模倣犯すら生成させたモンスターという大本営発表のラベリングをテレビやまとめサイト越しに受け取ってすべての思考を停止させる。彼らは人が人であるがゆえにこそ人として遇されねばならない、そんな「想像の共同体」の成員であることが決してできない。

 すべて人権は天与のもの、そんなフィクションがフィクションだと分かり切った上で、あえてその全きフィクションに没入する。なぜならばそのフィクションの貫徹された世界線の方が、リアリストとやらが口走る前近代型封建制の鼻白む縮小再生産的現実よりはいくらかまともなものだから。

「集団自決」のない世界とある世界、どちらがマシか、そんな想像が近代を生んだ。ただし、『正体』というフィクションの世界線において、想像というメディアによって発生した世界線において、どうやら住人は想像という営みを止めた。

「嘘は疲れます。できればつかないでいたいものです」。

 そんなディストピアのリアルが、この国の「正体」が、本書はには確かに反映されている。

 

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王様のレストラン

 

 私が考えはじめたのは、歴史の重要な瞬間に料理を作っていた人たちは歴史について何が言えるだろうということだ。世界の運命が動いたとき、鍋の中では何が煮立っていたのか? 米が焦げつかないように、牛乳が沸騰しないように、カツレツが焦げないように、あるいはジャガイモを茹でる水が吹きこぼれないように見張っていた料理人たちは横目で何に気づいただろう?

 たちまち次の問いが浮かんだ。サダム・フセインは何万人ものクルド人をガスで殺すよう命じた後、何を食べたのか? その後、腹は痛くならなかったのか? 200万近いクメール人が飢え死にしかけていたとき、ポル・ポトは何を食べていたのか? フィデル・カストロは世界を核戦争の瀬戸際に立たせたとき、何を食べていたのか? そのうちだれが辛いものを好み、だれが味の薄いものを好んだのか? だれが大食漢で、だれがフォークを皿でつつくだけだったのか? だれが血のしたたるビーフステーキを好み、だれがよく焼いたのを好んだのだろう?

 そして結局のところ、彼らの食べたものは政治に影響を与えたのか? もしかしたら料理人のだれかが食べ物に付随する魔法を使って、自国の歴史に何らかの役割を果たしたのでは?

 どうしようもなかった。問いがあまりに多くなったものだから、本物の独裁者の料理人を見つけるしかなくなった。

 そんなわけで旅に出た。

 

 独裁者のディナーと耳にして、世の中はついつい考えてしまう。

 何といっても独裁者である、金と権力に物を言わせて贅の限りを尽くして、満漢全席か、宮中晩餐会かと見紛うような奢侈を煮固めたような酒池肉林を毎夜毎夜味わっているのではなかろうか、と。

 しかし、鼻白むネタバレを予めしてしまえば、必ずしもそんなことはない、そんなわけはない。

 一方ではもちろん、ソ連からの援助が途絶え極貧にあえぐ共産主義キューバで、少なからぬ国民の糧が3日に1度の砂糖水であった時代においてすらも、フィデル・カストロが決して同じ食事を摂っていたわけではないことは事実なのだろう。ク・デタで政権を乗っ取った、時のウガンダ大統領イディ・アミンが、外交ルートの下準備も何もない思いつきのフライトでイギリスに飛び武器を買いつけたその金で、いったい何人の国民の飢えを救うことができただろうか、ということは十二分に考慮に値する問い立てではある。

 とはいえ結局のところ、独裁者の食卓というのはそうインスタ映えするものではない。今さら庶民派だ、共産主義思想の実践だ、と装う必要もない。たぶん、事実としてそうなのだ。

 例えばあのサダム・フセインのフェイヴァリットは「ティクリート風魚のスープ」だった。料理人が伝えるファースト・レディ直伝のレシピといえば、「魚は2センチ幅に切って小麦粉をまぶしておく。鍋底に玉ねぎと油を少し入れる。玉ねぎを炒めて、その上に魚を並べる。パセリを振りかける。その上にトマトを並べる。その上に干しアンズを並べる。その上にまたトマト。また魚。アーモンド。また魚。

 重ねる順番はどうでもいいが、重要なのは、いちばん下に必ず玉ねぎを敷くことだ。そしてスープにはニンニク、パセリ、アーモンド、アンズ、トマトを入れること。レーズンを少し加えてもいい。

 最初は魚と野菜から水分が出てくるまで待つ。シューッという音がしたら、水気がもうないということなので、ひたひたになるくらいまで熱湯を注ぐ。その後、さらに15分か20分煮込む。最後にほんの少しターメリックを加えてもいい」(太字はすべてテキストに準拠)。

 その料理人が、「ブラザー・マットレス」からの寵愛を勝ち得たきっかけも、「甘酸っぱいスープ」だった。「材料はササゲ、サツマイモ、カボチャ、ズッキーニ、メロン、パイナップル、ニンニク、肉――鶏肉か、牛肉――そして卵。2つか3つ。トマトを入れてもいいし、レンコンでもいいですよ。まず鶏肉を茹で、そこに砂糖と塩と野菜を全部加えます。どのくらい煮込めばいいのかわからないわ、だってジャングルに時計がなかったし、すべて勘でやっていたんですから。たぶん30分くらいかしら。最後にタマリンドの根を加えます」。

 アルバニアのエンヴェル・ホッジャの食卓は、さらに簡素なものだった。彼に許された1日の摂取熱量はわずかに1200キロカロリー、糖尿病を患っていた彼のために当時の医学が導き出した最高の療法が粗食だったためだった。その枠でなおかつ各種栄養素を補わなければならない、チームが日々献立を組むのに心を砕いていたとはいえ、そのメニューは寒々としたものだった。

「ホッジャは朝食に、かつてのように、チーズ一切れにジャムを添えて食べた。

 昼食に食べたのは野菜スープだが、肉のブイヨンを使わないもの――それは食べることを禁じられていた――それから仔牛肉か仔羊肉か魚の小さな切り身。

 デザートは果物だったが、あまり甘くないもの、酸っぱいリンゴかプラム。

 夕食はヨーグルト。

 ホッジャはほとんどパンを食べなかった。カロリーばかりで栄養価がないと医者たちに言われて、完全にやめたんだ」。

 新年のお祝いに伝統菓子「シェチェ・パーレ」を振る舞ったこともある。「もちろん砂糖の代わりにキシリトールを使わなくてはならない。/……ホッジャ用にはできなかったが、ホイップクリームと果物を添えると絶品だ」。

 そのいずれもが、見ての通りの家庭の味である。お抱えの彼ら作り手たちも、その国最高の名門レストランの腕利きから選りすぐられてきたわけでもない。そのほとんどが、さしたる専門的な料理教育を授かってきたわけでもない。OJTと言えるほどのものすらなく、ひょんなことから、としか言いようのないところから転がり込んできたような人々である。

 

 出来事には常に、多面的、多層的な顔がある。

 ひたすら国民から富を貪い焼け肥る独裁者たちも、こと配下の料理人に対しては、快く分配に勤しんだ。「年に一度――君はうらやましがるだろうね――サダムは我々ひとりひとりに新車を買ってくれた」し、「アミンの統治は私にとって3倍の給料とピカピカのメルセデスを意味していた」。仕えた料理人は今なお「フィデルはいろんなことで批判されるが、彼のしたことに欺瞞はなかった」ことを信じてやまない。

 それはあるいはDV夫に寄り添う妻にかけられたグルーミングの呪文と同等の症例でしかないのかもしれない。しかしいずれにせよ、概して人が仕えるには――それも長きに渡って――仕えるなりの理由がある。利権の後光に人間は勝てない。

 

 ところが、本書に登場する他の人物と比べても、少しばかり位相の違う証言を行う料理人がある。彼女が献身した相手とは、カンボジアの独裁者、ポル・ポトだった。

 厨房という政治劇の舞台裏からつぶさに歴史的場面を目撃していたはずの彼女は、ましてやその国が「料理人の世界が政治の世界とこれほど密接に絡み合った国は、世界でも他に類がない」にもかかわらず、ところが何も見ていなかった。世に語られるクメール・ルージュによる大虐殺にも別のアスペクトがあって、といった次元ではない。彼女はしばしば「質問が聞こえないふりをする」。たぶん「ふり」なのではない、彼女の住まうポスト・トゥルースではそんなことなど起きていないのだ。クメール・ルージュは「飢えを政治の道具として使っていた」、私たちが教科書等で知るその世界線は彼女の認識の外側にあった。そして彼女は断言した。

ポル・ポトは殺人犯ではなかった。

 ポル・ポトは夢想家だった。

 彼は公正な世界を夢見ていました。だれひとり飢えたりしない世界を。だれひとり威張ったりしない、だれひとり自分は他人より優れていると思ったりしない世界を。

 ポル・ポトは人々から食べ物を奪うなんてできなかったはずです。もしだれかがそんな命令を下したとしたら、それは間違っても彼じゃありません」。

 私がオーバーラップを禁じ得ない光景がある。オウム真理教の、あのサティアンにおけるダサいファッション、マズい飯。そしてその場にいる誰しもが、そんなことすら見えていなかった。麻原のケースと同様に、きっとポル・ポトの周辺では、誰しもがファクトの磁場の歪みにさらされていた。彼女はその代え難き証言者なのだ。誰しもが別の何かを見続けた、つまり彼らは、たとえ食卓を囲もうとも、誰ともつながっていなかった。

 彼らは孤独のグルメだった。

 

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