マンデラ・エフェクト

 

 本書は、マンデラのハンディな評伝を目指す。今われわれは、偏狭なナショナリズムが跋扈する世界に生きている。他方マンデラは、そのような分断を超え、誰もが想像し得なかった「和解」を成し遂げた人だった。1991年のアパルトヘイトの撤廃から30年、2013年のマンデラの死から8年が経ったが、彼の経験を振り返ることで、偏狭なナショナリズムを超えるビジョンが見えてくるかもしれない。

 だが本書は、マンデラを「聖人」とは見なさない。「わたしは天使ではない」とは、他ならぬマンデラ自身の言葉である。またマンデラの評伝の多くも聖人視を避け、家族関係の悩みなど、あえて彼の人間的側面に光を当ててきた。しかし人間的側面ばかりを見ることは、「マンデラもまたわれわれと同じだった」と、かえって彼の重要な側面を見落とす結果にもなる。

 その側面とは、政治家としてのマンデラである。マンデラは、一貫した思想を説き続けたわけでは決してなかった。人種差別と対決する姿勢は終生変わらなかったものの、それを実現する方法は時々に変化した。こうした「現実主義者」マンデラを描くことが本書の課題である。

 

 本書の冒頭に引かれるのは、クリント・イーストウッド監督映画『インビクタス』。おそらくはこの作品に示されているマンデラ像に概ね彼のパブリック・イメージは近似的に表現されていよう。まずはタイトルの通り、長きにわたる刑務所生活すらも乗り越えて南アフリカ共和国の大統領にまで上り詰めた不屈の人。そして作品においても繰り返し人種間の分断を克服する融和姿勢を訴え、一貫して揺るがぬその信念が伝播して、ついには1995年の自国開催ラグビー・ワールド・カップにおける大番狂わせの優勝を手繰り寄せた。

 しかし本書において描かれるのは、よく言えば与えられた現状の中でベストでなくともベターな道を探求するプラグマティスト、悪く言えばその時々で主張を二転三転させる風見鶏、そんなネルソン・マンデラの実像。ただし同時にその軌跡を追うとき、彼がアピールをかくもころころと変えねばならなかったその事情もただちに了承されよう。

 分断して統治せよ。

 今も昔も語られる封建的支配のこの黄金則の具現を必ずやかつての南アフリカに見るだろう。この国が乗り越えねばならなかったのは、単に白人支配のみではない。インド系、カラード、黒人という区分に加え、ルーツを同じくするものであってもそれぞれの主張に基づく立ち位置の違いによって時に反目を重ねる。果てには「ホームランド」という仕方で個々の部族がテリトリーで隔てられて団結を妨げられる。時々刻々と移りゆくそのパワー・ゲームを不変のスタンスで制御できた、はずがない。国とすらも呼べないようなそんな国をたかがひとりの人間の不屈の意志とやらでまとめられた、はずがない。

 彼が大統領になった、黒人が大統領になった、その限りで南アフリカは変わった。けれども、マンデラのすごろくはそこで上がる。就任前に既にほのめかされていた通り、白人の既得権益に手を突っ込むことはついにかなわずじまい。政治による汚職の蔓延もその主体がANCへと移ったに過ぎない。BRICSも死語と化して久しく、未だ経済成長の足場固めすらできぬまま今日に至る。

 アフリカーナーが自省に目覚めたわけでもなければ、圧倒的な数を持った黒人が声を上げたわけでもない。たぶんそのサクセスを可能にした最大の要因は国際情勢の変動、その中でマンデラ自身にできたことといえば、とてもささいなことでしかなかったのかもしれない。本書内、獄中におけるひときわ印象的なエピソードが他の伝記より引かれる。

 

 私から看守と政治についての話を始めたことは、決してありませんでした。私は看守たちの言うことに耳を傾けました。質問したがっている人に応える方が、効果的なのですよ……「なぜ、罪もない人を攻撃したり、殺したりして、この国にひどい難儀をもたらすんだ?」と聞いてきたら、こう説明するチャンスなのです。「あなたは自分の国の歴史を知りませんね。イギリス人に抑圧されたとき、あなたたちは私たちとまったく同じことをしました。それが歴史の教訓なのです」

 

 マンデラが現に変えることができたのは、おそらくはここまでに過ぎない。

 フィルターバブルで囲われた、スマホの半径数センチなんて、実のところ液晶のその向こう側となんかつながってはいない。聞く耳を持った生身の半径数メートルを変えること、カリスマの称号を得るにはただひとりで事足りる、たとえ歴史に名を残すことはできずとも。

荒れ野の誘惑

 

 理想にもえる若い学生だった私たちは、かねてから計画していた野生動物の調査をはじめようと、誰にも頼らずにアフリカに渡った。昔のままの自然を保っている地域を見つけるのに数カ月かかったが、ついにやっと“グレート・サースト”にたどり着いた。ここはアイルランドより広いにもかかわらず、あまりにへんぴなため、すむ人といえば石器時代さながらの暮らしをしているサン人の集団23のほかは私たちしかいない広大な原野だ。暑さはきびしく、水も、小屋を建てる材料にも乏しいので、中央カラハリ砂漠の大部分はいまだに未踏査のままで定住者もいない。私たちのキャンプからは、近くはもとより、少々行ったぐらいでは村はない。そもそも道がなかった。必要な水は100マイルも離れたところから、ブッシュヴェルトを通って運ばねばならなかった。小屋もなく、電気、ラジオ、テレビ、病院、食料雑貨店もないところで、いったんキャンプに入れば数カ月は、人けもなければ人工的な物もない、世間とはまったく遮断された暮らしだった。

 

 筆者たちにしてみれば本意ではないのかもしれない、しかしどう読んでもこのテキストに広がる世界は、ダンテ・アリギエリも吉幾三も裸足で逃げ出す、こんな村いやだの地獄篇。

 時は1974年、アフリカの地に降り立った彼らをまず待ち受けていたのは、道なき道と砂地と、そしてぬかるみ。目印になるような建物などまさかない、方角すらも定まらない、泥にタイヤを取られては足踏みを食らうことしばしば。いざ着いてみても肝心の動物の姿が見えない。

 何はともあれ、キャンプ地を構える。最寄りの水場は片道ざっと70マイル、そんなある日、水の残量を確かめてみるとドラム缶の中は空、補充のために車を出そうとすれば、あろうことかエンジンがかからない。

 そもそもが研究費の当てもない見切り発車、現地の物価をもってしても食糧を潤沢に調達できるはずもなく日々ふたりはやつれゆく。調査対象に選んだ動物が夜行性のため、昼夜逆転の生活を余儀なくされる、といって日中気温は50度に達することも珍しくない、それでいて冬場の夜間ともなれば氷点下を叩き出す、そんなエリアなのだからおちおちと眠ることさえできない。

 ある日のこと、「私は、東の地平線から、奇妙な灰色の煙がたちのぼっているのに気がついた。煙は渦をまいて上空へと何千フィートもたちのぼり、てっぺんは風にちぎれて、もやのような尾をひきながらゆっくり南へ流れていた。はるかかなたで――どのくらい遠くかわからなかったが――カラハリ砂漠が燃えていた」。そして野火は、見る見る間に彼らのキャンプに魔の手を延ばす。

 ふと目覚めれば、至近距離を肉食獣がさまよい歩いている。ライオンが車のタイヤに牙を立てる、筆者にとってはじゃれ合い、読者にとっては戦慄。観察を続けていればもちろん、ニックネームで呼んでいた彼らの飢餓や捕食や銃殺による死を突きつけられる。買い出しのために立ち寄った街で数カ月遅れの本国からの手紙を受け取れば、親族の死を知らされる。

 7年間の滞在を終え、生きて帰ってこのテキストを著したという究極のネタバレを前提とした上でなお、絶体絶命などという単語ではもはや言い尽くせないほどの試練が次から次へと彼らを見舞う。

 

 その中で、時に恵みの瞬間が訪れる。

 

 11月の雲にはじれったい思いをさせられた。薄もやのような雨の幕の、信じられぬほど甘くみずみずしい匂いがするのに、雨はいつもどこか遠くの砂漠のなかに降っていた。……

 何週間も失望を重ねてきた私たちは、今度もきっと嵐は素通りすると思った。だがそのとたんに黒雲はなだれのように“西の砂丘”の肩にくずれ落ち、黄色い砂嵐をのみこみながらキャンプのほうへおしよせてきた。……

 とうとう雨になった。窓枠のすきまから水が流れこんで、膝の上にしたたり落ちてくる。「におうよ! 雨のにおいだ! ああ、なんてすばらしいんだ! なんてきれいなんだろう!」私たちは何度も何度も叫んだ。……

 次の朝目を覚ますと、谷間は太陽の光をあびて明るかった。だがそれは、数カ月もカラハリ砂漠を焼き焦がした意地の悪い太陽ではなかった。穏やかなやわらかい光が、きらきらと露に濡れた水気の多い草の基部をかじっている数百頭のスプリングボックの背中をやさしく照らしていた。嵐は遠くの地平線で、わずかにけむっているだけだ。キャプテンとメイト[ジャッカルにつけられたニックネーム]、そしてオオミミギツネのペアが、スポンジのようになった地面にできた水たまりで水を飲んでいるのがキャンプから見えた。……

 この嵐で砂漠はふたたび緑色にぬりかえられた。それから一週間とたたぬ間に、谷間にはアンテロープの群れがたくさん集まり、ベルベットのような新芽のなかに、やせて耳のたれた子どもたちを次々に産んでいった。シロアリの有翅虫は女王アリのあとに群がって飛んでいた。オオミミギツネは綿毛のふわふわした子どもを連れてあちこちへちょこちょこ走りまわり、いたるところではねたり這ったり飛んだりしている昆虫の群れを食糧として、ふとりだしていた。だれもが食物の豊富なこの短い時期に子どもを産んで育ててしまおうとして急いでいた。暑さと野火の長い試練のあとにはいたるところに生気がよみがえり、新しい生命のはじまりが感じられた。間もなく次々に嵐が訪れ、雨期のはじまりとともに日中の気温は25度から30度程度に下がり、青い空にはこころよいそよ風が吹きわたり、まっ白い雲がひろがった。

 

 何が起きた――雨が降った。

 ただそれだけのことなのに。

 

ショーシャンクの空に』? それがどうした?

 ぬくぬくと自室でくつろぐ読者にすらこのカタルシスの一滴、したたり落ちずにはいない。

 神なき世界をさまよって灼熱の荒野を這う。そして萌える命にめぐり合う。救済のその瞬間は、今生にとて時に転がる。

Frozen

 

 本書は、20185月から202012月までの2年半のあいだ、月刊『みすず』誌上で3カ月に1回という比較的ゆっくりしたペースで連載した文章に、1章分の書き下ろしを加えて、本にまとめたものだ。……

 現在のわが国は、覚せい剤依存症という病気が重篤な人ほど、病院ではなく、刑務所に収容されなければならない状況にある。思えば、18世紀の終わり、フランスの医師フィリップ・ピネルは、それまで犯罪者と一緒に刑務所に収容され、「刑罰による治療」を受けていた精神障害者たちの足枷を外し、教科書には、それが近代精神科医療の端緒として記述されている。しかし、21世紀のわが国では、本来治療や支援を受けるべき人たちがいまだに刑務所に収容されているのだ。……

 私はこうしたわが国の制度にずっと違和感を抱いていた。アディクション臨床の現場に身を置いて経験を積めば積むほど、その違和感は大きくなった。つまり、「ダメ。ゼッタイ。」は嘘だ。この世には、よい薬物も悪い薬物もない、あるのはよい使い方と悪い使い方だけ。そして、悪い使い方をする人は、何か他の困りごとがあるのだ――それは時を経て強い確信へと変化し、もはやこれ以上、自分をだましつづけていることはできないと感じるに至った。

 こう言い換えてもいい。「困った人」は「困っている人」なのだ、と。だから、国が薬物対策としてすべきことは、法規制を増やして無用に犯罪者を作り出すことではない。薬物という「物」に耽溺せざるを得ない、痛みを抱えた「人」への支援こそが必要なのだ。

 その意味で、やはりこれは私なりの挑戦であり、闘いなのだ。そう自覚するに至るまでの彷徨や雑感をまとめたものが、本書に収録された原稿となっている。

 

 おそらくはこの本を通じて読者が出会うことになるのは、かなり意外な人物像の数々。

 薬物の中毒患者として一般に刷り込まれているのは、例えば「目が落ちくぼみ、頬がこけた、ゾンビのような姿」で「両手に注射器を握りしめ、口角から血のようなよだれを垂らしながら、いままさに背後から子どもたちに襲いかかろうと」するような、ザ・「人間やめますか?」。

 しかし筆者は断言する、「ゾンビのような薬物乱用者など存在しない。少なくとも子どもたちに薬物を勧めるくらい元気のある乱用者は、たいてい、かっこよく、健康的に見え、『自分もあんなふうになりたい』と憧れの対象であることが多い」。

 そもそもからして、「薬物の初体験は『拍子抜け』で終わる」し、「覚せい剤を使ったからといって、誰もが幻覚・妄想を体験するわけではない」。アルコールのように健康上のスタッツを著しく損ねることもなければ、アルコールのように脳萎縮を引き起こすこともない。

 

 さりとてその論調は、安易にドラッグを助長するものでもない。本書全体に立ち込めるのは、ひたすら濃密な死の匂い。そう聞いて人々は思うだろう、やはり薬物は死を手繰り寄せる、だから「ダメ。ゼッタイ。」なのだ、と。しかし、オーバードーズのリスクは承知した上で、その結論はおそらくは因果を違えている、つまり、死の危険と隣り合わせの者たちが、束の間の忘却を求めて薬物に走るのであって、薬物が必ずしも死へと駆り立てているわけではない。ほとんどの場合、ドラッグは原因ではなく結果。「困った人」を孤立させればさせるほどに、「困っている」彼らはますます薬物の他に向かうべき場所をなくす。

 夜という「魔の時間」に差しかかるとパニックや自殺念慮に襲われる、そんな類型的な患者たちを筆者は数多目の当たりにする。症例に触れて対話を交わすことでやがて気づきが生まれる。一連のフラッシュバックはドラッグの禁断症状などではなく、過去のトラウマによるものなのだ、と。「たとえば、父親から半殺しといってよいほどの暴力を受けたり、縊首した母親が目の前でぶら下がっているのを目撃したり、親戚のおじさんからレイプされたりした経験があった。あるいは、両親の暴力とネグレクトに耐えかねて家出したところ、勝手のわからない見知らぬ土地で輪姦被害に遭遇したり、病的に嫉妬心の強い男性たちから毎日のように殴られたり」、そうした夜をめぐる記憶が突然に開く。とりわけ「入院などして安全な環境に身を置くと、その安堵感のせいか気が緩み、心の別室の扉が開き、記憶の解凍が始まってしまう」。

 刑務所に収監したところで、彼らがトラウマから解き放たれることはない。

 

 それでもなお藁人形を求めるだろう人々に、筆者はあえて別なるアディクションの肖像を差し出す、すなわち、自分自身を。

 あるときの没入の対象は、「セガ・ラリー・チャンピオンシップ」だった。「大げさではなく、当時の私はちょっとした依存症の状態だったと思う。たとえば、友人との飲み会に行っても、『今日中に仕上げないといけない仕事があるから』などと嘘のいいわけをして早めに席を立ち、一人ゲームセンターに向かってしまう、といったことは一度や二度ではなかった。また、仕事をしていても、そのゲームのことを思い浮かべては、就業時間が終わるのが待ち遠しく感じた」。

 今なお続くのはコーヒー、カフェイン。卒業をかけて崖っぷちだった大学時代の「私にとってのコーヒーは、神聖な深夜の飲み物から『覚せい剤』へと変化した」。耐性がついてしまった筆者は、次いでカフェインの錠剤にも手を伸ばす。それにも慣れ切ってしまうため量を増やせば、「今度は嘔気と頭痛で勉強どころではなくなった。いうまでもなく、急性カフェイン中毒の状態だ」。

 愛車のアルファロメオの改造にのめり込んでいた頃、そのことにすら気づかない周囲の知人とは対照的に、やたらと敏感にささいな変化を指摘してくる群があった、つまり、依存症患者たちだった。「私なりに考え抜いて出した答えは、『依存症患者自身が改造を好む人たちだからではないか』というものだった。つまり、ありのままの自分に満足できずに、たえず何かを付け加えようとすることが、病気の本質なのではないか、という仮説だ」。

 にもかかわらず、診察室の両者は決然と医師/患者、場合によっては受刑者として隔てられる。この皮一枚、果てしなく厚いのか、はたまたこの結界、幻覚に過ぎないのか。

 

 そして筆者が見出した最高のアディクションは、「アヤナイI&I」だった。「人はともすれば、『あなたと私』という対峙的な二者関係において、相互理解の美名のもと、相手を説き伏せ、改宗を求め、支配を試み、それに応じなければ、相手とのあいだに垣根を築くものだ。しかし『アヤナイ』は違う。『相手とのあいだに垣根を作らない。相手を自分のことのように思う』という態度なのだ」。

 本書のクライマックス、とある逸話が紹介される。

 

「ネズミの楽園」と名づけられた有名な実験がある。一匹ずつ金網の檻のなかに閉じ込めたネズミ(「植民地ネズミ」)と、快適な広場に仲間と一緒に収容されたネズミ(「楽園ネズミ」)の双方に、ふつうの水とモルヒネ入りの水の両方を与えるという実験だ。結果は実に興味深いものだった。植民地ネズミがモルヒネ水ばかり飲む一方で、楽園ネズミはモルヒネ水には目もくれず、ふつうの水を飲みながら他のネズミとじゃれ合い、遊んでいたという。

 さらに、檻の中ですっかりモルヒネ依存症になった植民地ネズミを、今度は、楽園ネズミのいる広場へと移した。すると、最初のうち、一人ぼっちでモルヒネ水を飲んでいた植民地ネズミは、やがて楽園ネズミたちと交流し、一緒に遊ぶようになった。それだけではない。なんと楽園ネズミの真似をしてふつうの水を飲みはじめたというのだ。

 

 世の社会心理学系の実験がしばしばそうあるように、あまりに美しいこの研究の再現性についても私はつい悪い癖で訝しんでしまう。しかし本書を要約するに、これほどにふさわしいエピソードは二つとない。

 社会リソースをケアではなく厳罰に回し、締め上げ可能な誰かを血眼になって探す、自己責任の名のもとに「植民地ネズミ」の孤立を促し続ける限り、この世界は次なる薬物依存を、ローン・ウルフを、ジョーカーを量産し続ける。

 日だまりに包まれて「エブリシング・ゴナ・ビー・オールライト」する、「楽園ネズミ」のこの光景を誰が「ダメ。ゼッタイ。」と咎めることができるだろう。

富久

 

 もう、実際の高座を離れてからかなりの時間がたっていて、若い落語ファンのあいだでは、「幻の落語家」などといわれていたのだが、僕にとって志ん生は、いつも現役の落語家であった。だから、志ん生が死ぬなんて、考えられなかったのである。むろん、人間の寿命には限りがあり、83歳という年齢が、決して短いものではないことぐらい理解できる。しかし、志ん生に限っていえば、不死身という不可思議なことを可能にするような、妙な能力をそなえていると、勝手にきめこんでいたのだろう。悲しみがこみあげてくるというより、なんだか予定稿を書かされているみたいな空疎な感じがつきまとって困ったものだった。

 

「芸と商売たあ別ですからネ。芸なんてもなァ、一年に二度か三度ぐらいのもんで、毎晩、芸やってた日にゃあ、こっちの体が参っちまいますからナ」。

 そして期せずして学生時分の筆者が、志ん生の「藝」にまみえる。

 その日の寄席の客層といえば、それは粗末なものだった。どうでもいいところで高笑いをして興を削ぐは、若手を聞くに堪えないことばで野次るは。どう見てもそれは典型的な「商売」日和に違いなかった。

 やがて高座に現れた志ん生にもやはり汚い罵詈雑言が浴びせられる。しかし、志ん生に応じるところはない。涼やかに語りはじめる志ん生、瞬間、音が消える。たちまちにして、高座と客席、上と下が画然と分かたれる。

 mediaの語源はギリシャmedium、すなわち中間、とりわけ神と人間を繋ぐ霊媒を指していう。対してcommunicationのそれは共有関係に由来する。フラットなコミュニケーションを拒絶して、垂直的なメディアの「藝」が降臨する。

 

 きいていて、どうやら志ん生が『富久』をやろうとしていることがわかってくると、なんだかこちらの胸がたかまってきて、気持を落ちつかせるのに困った。寄席で、こんなに気持が昂揚したなどは、初めての体験であった。その時分志ん生で『富久』をきいたことがなかったし、桂文楽以外にこのはなしをするひとがいることも知らなかったのである。

『富久』は、三遊亭圓朝が実話を落語化したという説もあるらしいが、しがない幇間の哀感を、きわめてドラマチックに描いた名作である。名作であるから、滅多なことでは寄席の高座になどかからない。まして、何かと藝惜しみする志ん生が、しかも質のよくない酔った客のいる席で、『富久』を出すなどは、まさに信じ難いことに思われた。その信じ難いことを志ん生がやったのである。

 きちんとサゲまで、神経のこまかくはりめぐらされた『富久』を演じ終えたとき、さかんに弥次をとばしていた数人の客が、感動にすっかり酔を醒まされたといった表情で、ひときわ大きな拍手を送っていたのを忘れない。

 はなし終えた志ん生が、べつに格別の藝をやったというのでもなく、勝ち誇った表情をするでもなく、まったく当り前の、それこそいつもの商売をしたのだといった感じの、ごく自然なかたちで拍手に送られて引っこんだのも忘れられない。

 商売をやるつもりで高座に出ながら、つい藝をやってしまった天邪鬼な志ん生に、一度だけでも触れることができたのは、やはり大変な僥倖であったと、つくづく思うのである。

 

 もしこの模様が収録されていたとして、どうにもならない。タイム・トリップなんてものができて実際に立ち会えたとして、どうにもならない。

 テキストは音を持たない、肉を持たない。それゆえにこそ、紙上に「藝」が舞い降りる。

 実に、文字こそが至上のメディアたるその所以を告げる。

地獄に落ちるわよ

 

 歴史的に「復興」の語は、アルカイックなものの復活という観念と結びついてきた。それは古代の復興、失われた伝統や様式の復興、すっかり衰えてしまった家計や生業の復興といった意味であった。だから、災害からの「復興」で巨大な防潮堤が築かれ、木造低層の家々が高層マンションに建て替えられ、地域の昔ながらの風景が失われてしまうことは、この語の原義からすれば完全な逸脱である。……

 本書のタイトル「東京復興ならず」には、二重の含意がある。第一に、それは戦後日本の「東京復興」が、文化首都を目指すものから「より速く、より高く、より強い」首都の実現へとひた走る成長主義的な路線に転換していった過程を具体的にたどっていくことになる。敗戦後、戦災復興計画が目指したのは、東京への一極集中化ではなく、より分散的な都市ネットワークのなかに大学街や娯楽街を配置し、緑と文化の首都を実現することだった。……このような文化首都としての東京を目指す考え方にとっては、「復興」は「経済成長」というよりも「文芸復興」に近かった。

 しかし、東京の未来についてのこの想像力は、やがて高度経済成長への奔流のなかで流産する。実際の東京は、敗戦後に構想されたとはまったく違う道をたどった。この転換を決定的にしたのは、もちろん1964年の東京五輪開催である。……

 経済成長路線を邁進した東京の戦後は、そもそもの「復興」とは根本的に異なる過程だった。これが、本書のもう一つの問いである。前述のように、「復興すること」と「成長し続けること」は水と油の関係にある。「復興」は、仮に部分的に「成長」のモメントを含んでいたとしても回帰的な過程であり、「成熟」に近い。……成熟としての「復興」という概念を、戦後東京はついに獲得しなかった。否、少なくともいまだ獲得できていない。

 

「健康で文化的な最低限度の生活」。

 この憲法条文における「文化」が指し示すもの、同時代のコンテクストに身を置き直すとき、そこに呼び覚まされる意味に虚をつかれる。

 終戦直後の読売新聞による以下の記事が典型的に表すだろう。「戦ひに敗れた日本の新しく生れ来る大きな指標は“文化日本”の建設である」。これからの日本は、軍事ではなく「文化」をもって世界に輝ける地位を目指す、国体を「文化」という耳障りのよいことばによって塗り固めた、急ごしらえの同工異曲にすぎなかった。喉元過ぎれば熱さを忘れる、ひとときこの「文化」に熱狂しただろう彼らは間もなく、技術の別なる活路としての「経済」への鞍替えを果たす。

 しかし世の中には、「文化」を別の側面から捉えていた人々もいた。この文言に寄与しただろう森戸辰夫も然り、そして例えば時の東大総長・南原繁や東京都都市計画課長・石川栄耀も然り。彼らが焼け野原に思い描いたのは「文化都市」としての東京とは、大学を中心に「市中には到る所広場あり、広場には彫刻あり、水辺は必ず緑であり、盛り場は、あげて路上祭であり市民クラブである」。

 もっとも現実で選び取られた「復興」の東京は、この「より愉しく、よりしなやかで、より末永い」東京ではなく、「より速く、より高く、より強い」東京だった。何にも増してその点は首都高速に象徴される。「文化都市」構想においてはオアシスのような位置づけを与えられていただろうウォーター・フロントは、そのことごとくが道路によって蓋をされ、あるいは埋め立てられた。

 この煽りは都電へと及ぶ。モータリゼーションの猛威にあって少なからぬ都民は思った、路面電車を一掃すれば自動車の流動性は確保される、と。しかし失ってはじめて人々はその価値に目覚める。そもそもの渋滞解消に何ら寄与することもなく、従って代替手段として導入されたはずのバスが時間通りに来ることもない、それ以上に重要だったのは、「その文化的なポテンシャル、あるいは人々のコミュニケーションの媒体としての価値だった」。都電とともに営まれていた何気ない日々の、何気ないコミュニティがそのベースを喪失する。

 

 あるいは、これらの「復興」により経済は残ったかもしれない、しかしもし、その経済すらも失われてしまったとしたら――

 過日、久方ぶりの日帰り遠出で人口5万の小都市を訪れる。

 マックにケンタ、スシロー、ジョナサン、すき家に王将――幹線道路を覆うのは、品評会かと見まがうばかりのファミレス、ファストフードのオールスター・キャスト。その街最高の就職先といえばおそらくは市役所、平成を通じて産業構造の転換や街づくりを果たせず、さりとて地域の独自性など何もない、モータリゼーションが生んだスプロールの黄昏、ただ朽ちゆくがままに任せ――たぶん住人の意識としては現状維持――、いくらかできるエンゲル係数の余白はそれら大型チェーンにさらわれて、緩やかに外へと汲み出されていく。余命数年、干からびて吸い取るものがなくなれば、寄生虫は新たな宿主に飛び移る。

 ファストを食らい、ファストをまとう、ファストな人々。おそらくは地方部を回った数だけ、同じ光景を目にすることになるだろう。入替可能、入替不要、もはやこの自治体は名前を持つ必要すらない。昭和の時代、他の例に漏れず、この土地もまた夢見ただろう、自らが東京もしくはトーキョーのミニチュアと化することを。あるいはその未来予想図は、止めどなき膨張を続ける東京に飲みこまれて、自らが東京の一部を形成するものだったかもしれない。そしてそのバブルは経済の収縮をもって、終止符を余儀なくされた。都市にもなれず、企業城下町にもなれず、まさか農村漁村にも戻れない。単に変わることができなかっただけの、成長に挫折した片田舎の哀れな末路としばし眺めてはっとする。移り住まされても私の神経は三日と持たないだろう、後進的な退廃漂うこのロードサイドは、むしろ先鋭的なまでに日本全土の行く末を先取りしているのではなかろうか、と。

「復興」ということばに「あるのは歴史を直線的な発展として捉える〔丹下健三的〕進歩主義的史観ではない。歴史は何らかのパターンの反復、ないしは循環なのであり、過去と現在、未来は螺旋を描くプロセスのなかにある。未来は過去のなかにあり、そのような過去は未来のなかに生き続けるのだ。もちろん、こうした歴史観は、そもそも『文化=耕作』[culturecultivateは語源を同じくする]という概念の根底にもあったもので、だからこそ失われた命は、文化のなかでこそ蘇ることができるのである。直線的な発展史観のなかでは、死者は永遠にこの世に戻れない。その先に広がるのは、果てしない虚無でしかなくなってしまう」。

 直線史観の夢破れた残骸としての地方、ファストという「虚無」をもって覆われた彼らにはもはや未来も過去もない。そして筆者の儚き願いとは裏腹に、既に東京にもない。