もう戻れない

 

 歌謡曲とは、おそらく、戦後の日本における最強の思想である。というのも、言語に関わるどんな文化を考えてみても、歌謡曲ほど広く深い浸透力をもつものはないからだ。小説は、ベストセラーになっても、読まない人は読まない。映画や演劇は、大ヒットしても、観ない人は観ない。いわゆるJ-POPは、基本的に同時代を生きる若者向けの音楽であるし、あまりに拡散的で、誰もが知っている歌、というのは生まれにくい。しかし、歌謡曲は、それなりに限られた数のヒット曲が、年齢や階級をとわず、広く国民に共有されるしくみになっていた。それは、良くも悪くも受け手を選ばない。聴く気がなくても聴こえてくる。それらの歌は、日めくりカレンダーの格言ではないので、人は、その意味内容の是非をいちいち立ち止まって反芻しない。しかし、ふと気づいてみるといつのまにか、メロディーとともに言葉が脳裏に焼き付いている。

 こうしてサブリミナルに蓄積される言葉というのは、あなどれない。とりわけ若い頭脳にインプットされる言語情報というのは、人間の価値観に大きな影響を与えるからだ。でなければ、学校の教科書の検閲が政治的論争になったりはしない。しかし、問題は、だれも歌謡曲を「教育」とは考えていないところである。

 

 1981年生まれの私、本書を開いて間もなくつまずく。

 とにかく矢継ぎ早に繰り出される曲名、歌手や作詞家、リリックの断片といった情報がカスケード状にたたみかけてくるそのさまに、たちまちオーバーフローを来たす。

 ランダムに開いたページ(p.42f.)からその例示を引いてみる。

 一般家庭の女性をめぐる既婚恋愛が主題として広まり出したのは、70年代であったように思われる。そして、当時この主題をもっとも端的に歌ったのは、おそらく沢田研二にとどめを刺すだろう。その題名がすべてを語る「許されない愛」(72)は、「帰るところのあるあなた」への追慕を語り、愛しい相手を「忘れられないけど/忘れよう」とする男の歌であった。もうひとつ、これをほぼ反復しているのが、その6年後の作品「LOVE(抱きしめたい)」(78)である。ここでも、「帰る家」と「やさしく包む人」がいる相手に対し、「指輪を外して愛しあう/いけない女と呼ばせたくない」という男が苦渋の「さよなら」を告げる。あるいは、沢田研二の代表曲となった「危険なふたり」(73)にしても、いったい何が「危険」なのだろうと考えるとき、「世間を気にする」「年上の女」が既婚である可能性を排除することができない。

 さらに、女性の目線からこのテーマに迫る別の例を見てみよう。山口百恵の「絶体絶命」(78)で三角関係の修羅場をくぐるツッパリ娘は、けっきょく、「白いハンカチをかむ」女性の「涙の深さに負けた」という。

 圧倒的に流れ込んではざるのようにすり抜けていく単語の数々に、さてどうしたものか、と途方に暮れる。持て余すこと数ページ、ふと気づく。例えばこの「帰るところのあるあなた」を文字列として1秒やそこらで処理しようとするからおかしなことになるのであって、おそらくは曲に乗せながら数秒を費やし、あるいはさすがにフルとはいかないまでも本文には引用されることのない詞のコンテクストなども時に想起しながら、この文章を読み込まなければならないのだ、と。そして、それが一定の世代においては自然と可能になっているというこの事態こそが、「歌謡曲」の「歌謡曲」たる所以なのだ、と。

 漠と察するに、「歌謡曲」として本書に現れるような一連の作品を知っている世代は、しばしば鼻歌でも奏でながら、調子を合わせてテクストをめくっていく。「この主題をもっとも端的に歌ったのは、おそらく沢田研二」と言われても、既に半ば懐メロ化したものとして「歌謡曲」に触れた世代にとっては、あっさりそんな風に断言していいのかよ、と疑問符のひとつでも入れたいところ、でも、「歌謡曲」の「教育」をデータベース共有する世代にとっては、当然のコンセンサスとしてさしたる引っかかりを生むこともなく通過していくのではなかろうか。

 ハミングのひとつも漏れる、自ずと歌詞も口をつく、同時代性も呼び覚まされる、遡ることほぼ半世紀、「歌謡曲」が「歌謡曲」たり得るためにテレビの前で「教育」に費やされた時間があってこそはじめて成り立つこの文体こそが、「歌謡曲」という現象を無二の仕方で表現する。

 

 あくまで個人的な記憶の範疇を一般化する愚を犯す。1990年前後の小学生が「歌謡曲」に触れる最大の機会をもたらしたのは、アニメ版『ちびまる子ちゃん』だった。音楽番組をほぼ見ない家庭で育った私は、この物語経由でピンク・レディー山口百恵の名を覚えた。「UFO」の振りつけを知ったのも、たぶん『まる子』が契機である。紛れもなく、「歌謡曲」は近過去のノスタルジアを湛えるテレビの中の彼女たちの共通言語だった。

 思いついてしまったからどうにもとまらない、以下、本書から一旦外れて『まる子』のテーマ・ソングに触れてみる。「おどるポンポコリン」も「走れ正直者」も、ターゲット世代ならば誰でもだいたい歌えるということでは「歌謡曲」の定義をなるほど満たしていそうではある。しかしさくらももこ作詞のそのサビといえば、「ピーシャラピーシャラパッパパラパ」に「リンリンランランソーセージ」と、今となってはノスタルジア遊園地の空々しさとかバブルの虚しさとかそこにさえもどうとでも意味をこじつけることはできるけれども、基本的には「虚構の時代」(見田宗介)の作法丸出しの、読み解くべき意味がないということを読み解くことしかできないようなものだった。

 

 閑話休題、そんなピンク・レディーの代表曲、「ペッパー警部」。何気なく聞き流されていく歌詞の意味などまともに考えたこともなかったけれど、確かに改めて読んでみればいちいちが暗喩とすら言えないまでにあからさまである。「注射」、「愛しているよと 連発銃が」、「ああ 感じてる」、そしてとどめに「私たちこれからいいところ」――ここにセックス以外の何かをどうやって見出すことができるだろう。

 しかし、筆者に言わせれば、このように「基本的に受け身の異性愛女性を批判的に描き出したピンク・レディーだが、続く数曲においては、積極的に欲望する女性、ないしは男を狙う女、という山本リンダ的なベクトルが強まっていく」。例えば「渚のシンドバッド」において「あなたはセクシー」と歌うことで男性を「セクシー」な客体として眼差し、「UFO」に至っては「鏡にうつしてみたり/光をあててもみたり」してでも窺い知ることのできない「素顔」の誰かと対置するように、「地球の男に あきたところよ」とサビで突き放す。筆者の見立てでは、「男を欲望しない性的越境者」をめぐる「ひとつのクライマックス」としての「モンスター」は「何らかの理由で性的に疎外された者の憤り」をあらわし、そして同時に「モンスターが来たぞ」と自己宣伝しなければ「うようよ」する「ひと」に気づかれない透明な存在であることを暴露する。

「既成の価値に固定されないもの、逸脱した変種としてあるもの、そしてしばしばグロテスクで『不自然』なものの復権を、二人の女性ペアは一貫して謳いあげた」。

 そして原著の出版からさらに20年、現代の読者は、ミーとケイのトランスがあくまで「謳」わされたものでしかないことを知っている。数分刻みのスケジュールで酷使され、骨までしゃぶり尽くされて、そして捨てられた彼女たちは、旧来的ジェンダー女工哀史を紡ぐ存在として再定義されて今日に至る。

 

「天使とは、本来、性別を超越した存在であり、おそらくはその性的超越のゆえに、〈非・大人〉との親和性が高い」。ここで筆者はひとりのアイドルにフォーカスを当てずにはいられない。「桜田淳子は、新曲が出るたび初恋を繰り返すかのごとく、くちづけに憧れ、ためらい、ときめく少女の想いを歌い続けた・もちろん、どの歌を聴いても、そこから先へは進まない」。そして本書内、最高級の賛辞が飛び出す。「歌謡曲の仕事とは畢竟、性(差)の倦怠感に抗う天使的な〈何度目でも初めて感〉の終わりなき再生産であり、単なる癒しや快楽とは違う、何らかの異化作用を聴き手のうちにもたらすことである。それは、日常という名の淀みから、性/生が〈未知の不安とあこがれ〉であるような感覚をすくい取るいとなみである」。

 確かにレコードの中の歌声は、エンドレスにリピートさせることができる。しかし残酷にも、ヴォーカロイドならざる人間は、「日常」の重力に囚われずにはいられない。束の間「天使」として宙を舞った存在が、流れゆくそして不可逆の時の中で、地上に引き戻されるその刹那、その統一は非常な摩擦を伴わずにはいない。結果、彼女はやがてトランスの中で、70年代ですらない前近代の家庭を自ら進んで引き受けた。

 

 2002年の筆者は、「歌謡曲」による「教育」の果てに広がる「ミラクル・アイランド」の夢を見ることができた。そして現代において読者は、その壮絶な答え合わせのオンタイムを生きる。

「消えていくこと、去っていくこと、永続しないことに対する強い自意識のあった70年代は、それゆえにいっそう、甦ること、回帰すること、思い出して生き直すことを促す逆説的な生命力を秘めている」。仮にこのテーゼが正しかったとして、それはあくまで「歌謡曲」が「歌謡曲」たり得たことを前提としての話である。「歌謡曲」を知らない子供たちにその声が届くことはない。

 万が一彼らにリーチしたとしてもそれは、間奏を省かれたYoutubeや曲名検索の1ページ目に現れる歌詞解釈のコピペを超えない。つまり、それは今日の他のコンテンツがそうあるように、「歌謡曲」が「歌謡曲」であった時代以上の画一性をもって消費されることとなる。彼らから教義への批判性は決して望み得ない。

 このリヴィング・デッドの壁を前に、勝手にしやがれ、それ以外に何を言うことができるだろう。

 

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オキナワ・サンマ・パーティー

 

「サンマ裁判」とは、1965年、復帰前の沖縄で、琉球漁業株式会社が琉球政府を相手に起こした裁判のことだとわかった。当時の沖縄にとって輸入品だった大衆魚「サンマ」にかけられた「関税」について「不当な徴収であるから返還・還付せよ」と輸入業者たちが琉球政府を訴え、一審では勝訴。

 この判決は琉球政府を実質的に管理し、当時の沖縄を支配していた「高等弁務官」にとって都合の悪いものであったために強権が発動され、「サンマ裁判」はアメリカ側の裁判所に「移送」され「司法権」を揺るがす大問題となり、そして「祖国復帰運動」の高まりへと繋がっていった……。

 そんな激動の時代だった沖縄の「復帰前」を象徴するような、熱いドラマがあったことを僕は知った。

 

 この裁判が何を争っていたのかについて、もう少し補足が必要だろう。争点となったのは1958年に発せられた「布令十七号」だった。この中では、日本からの「輸入」に関して「次に掲げる物品で別表に定めるものは物品税を課する」とされており、生鮮魚介類についても「別表」には19品目が具体的に記載されている。うなぎ、あゆ、かき……と連なるこのリストの中には、しかし既に沖縄においても大衆魚として親しまれていたサンマは見当たらない。

 ところが、これら19品目と同様に、サンマにも20パーセントの税率が課せられていたのである。

 アメリカ民政府の見解ではこれらの項目はあくまで「例示」にすぎず、広く海産品全般に及ぶ。しかしこれが琉球政府を揺るがす事態へと発展し、時の主席はすぐさまサンマへの関税を撤廃。ところがそうは問屋が卸さない、高等弁務官ポール・キャラウェイはすぐさま課税の再開を指示する。

 ボストン・ティー・パーティーの記憶再び、「代表なくして課税なし」と義憤をもって立ち上がったのが、水産業者のゴッド・マザー、このドキュメンタリーのメイン・キャスト、玉城ウシだった。

 

 単にルポルタージュとして記載された情報を拾うだけならば、本書をめぐる評価はいささか厳しいものとならざるを得ない。というのも、事件の発生から既に半世紀が経過しているのである、関係者が鬼籍に入って久しくなっているのも当然で、いきおい情報は専ら新聞記事等の引用に頼る他ない。

 ところが、本書無二の切り札がすべてを覆してしまう。

 玉城ウシの面構えである。

 劇映画ならば、このキャラクターをキャスティングできた時点で既にもらったようなもの。しかも本訴訟には、女史にも負けず劣らずの脂ぎった面々が集まってくるのである。ましてや、人のお名前をいじる悪趣味や非礼は承知の上で、ウシもいれば、トラもいて、もちろんあのカメだって登場してくる、ドラマのネーミングを凌駕して、本書の磁場のリアリティ・ラインは圧倒的に振り切れる。

 こうした多士済々がインクのシミを抜け出して、脳内で躍りはじめる。

 

七人の侍』や『仁義なき戦い』をもってしても裸足で逃げ出す顔の圧が、本書に絶対的な説得力を宿さずにいない。当然に、同時代の沖縄人が触発されないはずがない。

 上述の通り、サンマ裁判は高等弁務官の鶴の一声でアメリカへと移送された。もちろんデュー・プロセスに則るでもない司法権を蹂躙するこの暴政に、「職業柄、『語らない』はずの裁判官たちが、明確に『反対』と声を上げた。最高裁にあたる『上訴裁判所』以外の全裁判官38人が、団結して抗議文をまとめてアメリカ民政府に突きつけたのだ」。

 1966年、第5高等弁務官F.T.アンガーの就任式典における「祝福の祈り」の壇上では、ラインホルト・ニーバーのフレーズに添えて、牧師が堂々と言い切った。「新高等弁務官が最後の高等弁務官となり、沖縄が本来の正常な状態に回復されますように、せつに祈ります」。

 この瀬長ひとりが叫んだならば、50メートル先まで聞こえます。ここに集まった人々が声をそろえて叫んだならば、全那覇市民にまで聞こえます。沖縄70万県民が声をそろえて叫んだならば、太平洋の荒波を超えてワシントン政府を動かすことができます。

 瀬長亀次郎のこの名演説を本書は地で行く。

 たかが茶にかけた物品税への反発から派生して、ついには独立戦争にまで至ったアメリカの建国史をなぞるように、沖縄においても、きっかけはたかがサンマだった、いや、たかがサンマだからこそ、沖縄の民主主義を惹起せずにはいられなかった。

 年貢の暴利を貪る権力者に媚びたところで、彼らが良きに計らってくれる日など決して訪れることはない。そんなミラクルが起きるのならば、歴史は封建時代をめぐる一切の記述を持つ必要がない。独立は天から降ってこない、地から立ち上がることでしか得られない。

 

 本書後半に、玉城の上京時の様子が親族の証言として綴られる。

「わたしたちが迎えに出たら、〔柴又〕帝釈天商店街をむこうから歩いてきたんです、ウシさんが。見えてきたら、もう指にも首にもジャラジャラとアクセサリーがついてて、洋服もけっこうど派手な感じで。みんなビックリして振り向いてました」

 ニライカナイより舞い降りたる異物、それはまさしく車寅次郎の降臨に似て。

 風貌が履歴をあらわす、身近にいればかなり面倒くさいだろう、アクの塊のような、裸一貫のし上がり。読者の多くは、本書を通じて構築されたイメージのいわば答え合わせとしてこの記述を目にすることになる。

 明日は今日よりすばらしい、そう信じて献身できる時代があった。

 

 実は本書には、玉城ウシに向こうを張るようなもうひとりの主役がいる。サンマ裁判において代理人を務めたその弁護士、下里恵良という。「ラッパ」の二つ名で鳴らし、長年にわたり沖縄における自民党の重鎮を担ったこの彼が、我慢ならんと訴訟に立ち上がったのである。無限に引用したくなる、これまたフィクションを凌ぐ立志伝に関する詳述はあくまで本書に委ねるが、誰に臆することもなく、瀬長亀次郎と懇意を結んだことでも知られるという。

 その瀬長が下里の死に際して寄せた追悼文がある。

「ものの考え方、政治的立場は違っても、相手に対するあたたかい思いやりをいつもわすれず、自分のいいたいことをいい、思ったことをやりぬいたヒューマニズムの持ち主、恵良さんの、あの豪放磊落な笑い声がもう聞けないのが残念でなりません」。

 本書を手に取る者ならば必ずや瞬間、その「豪放磊落な笑い声」を聞く。

 そして何より、この面構えである。

 カール・シュミット「友敵理論」に毒された、同胞を指して「あんな人たち」呼ばわりする排他主義者にまさかこの顔が望めようはずもない。違いを超えて民として互いに手を取り、己が祖地の主たることを欲してやまない誇り高き者にしか持つことの許されない顔がここにある。

 

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統治行為論

 

 原発は危険なのか。それとも大地震が起きても大丈夫なのか。311後、原発が少しずつ再稼働していくなか、漠然とした不安を持っている人は多いと思います。いったい本当はどちらでしょう?

 対立する主張を本格的にぶつけ合う場は、裁判しかありません。「危険だから止めてほしい」と訴える住民たちが原告となります。国や電力会社は被告です。そして、どちらに説得力があるかを判断するのが裁判官です。勝訴と敗訴を分けるポイントは何でしょうか。

 この本は、裁判長らの証言と最高裁の内幕を知る人たちの証言を収めています。……

 この本は三部構成です。

 第一部には、住民側勝訴の判決を下した三人の裁判長が登場します。なにが勝敗を分けたのか、どんな論理によって結論を導き出したかを丁寧に解説してもらいました。司法の可能性を感じることができる内容です。

 第二部では住民側敗訴の判決を書いた裁判長らに証言してもらいました。どのように「原発を裁く」ことはむずかしいのか。その葛藤を通じて、司法の限界をうかがうことができます。

 第三部では、地裁や高裁の裁判官に強い影響力をもつ最高裁の動きと今後の原発訴訟のゆくえを追いました。

 

 憲法学の世界に「統治行為論」なる概念がある。

 このアイディアが日本の司法に現れたその初出は、1959年のいわゆる砂川事件をめぐる最高裁判決に遡る。そもそもは抗議活動中のデモ隊による基地内への半ば不可抗力的なわずか数メートルの乱入から派生して、米軍の駐留をめぐる違憲性が問われるに至ったこの裁判において、一審では被告の主張が認められて無罪、そして検察側からの異例の「飛躍上告」によって最高裁に持ち込まれるに至る。果たして大法廷が下した判断は、「安保条約の如き……高度な政治性を有するものが違憲であるか否かの法的判断は、純司法的機能を使命とする司法裁判所の審査には原則としてなじまない性質のものであり、それが一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外にあると解するを相当とする」。かいつまんでいえば、裁判所は憲法に定められた三権分立の一切を放棄して行政にフリーハンドを認めます、と宣言するも同然の判例がここに完成した、これをもって「統治行為論」という。

 

 実は、原子力行政についても、この「統治行為論」に限りなく通じる最高裁判例が存在していた。   

 それが、1993年の「伊方原発訴訟」である。本書なりの要約を引用すれば、「原子力や工学、地震学などの専門家が高度の知見を持ち寄った国の規制基準。それにもとづいて原発はつくられたはず。それを担当省庁が審査して『合格』としたのであれば、規制基準が不合理なときや、よほど見逃すことのできない欠陥や見落としがない限り、裁判所としては『よし』とする。それは行政庁の裁量の範囲内であり、司法は行政に判断をゆだねてよい――。

 つまり裁判官は、個々の原発が危険かどうかについて独自の判断に踏み込まなくてもすむのだ」。

 国の定めたガイドラインがお墨付きを与えている以上、原発行政も「裁判所の司法審査権の範囲外にある」と最高裁は公に言い放ったのである。

 

 しかし、ポスト3.11の福井には、「すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される」(日本国憲法76条)との文言を胸に法廷へと臨む傑物があった。

 突破口は被告の関西電力が何気なく差し出した資料の中にあった。その裁判長、樋口英明は当時の衝撃を述懐する。

「どちらも『原発は強い地震に耐えられない』ということを前提に議論しているではないか。

『正直驚きました。双方ともその点には争いがないんです』」。

 その見解に相違があるとすれば、被告の関西電力サイドが、大飯原発周辺にはそもそも大規模な地震が起きないことを前提に議論を組み立てている点に過ぎない。そこにおいて想定されていた地震の衝撃は1260ガル、そしてそのような地震が福井を襲うことはない、それが安全性をめぐる彼らの主張だった。

 しかし、現実はとうの昔に電気事業者の理論上の計算を裏切っていた。

「全国に20カ所もない原発のうち4つの原発を、想定した地震動を超えるものが5回も襲っている――。しかも6年足らずの間に起きた事実だった」。そうとなれば、「被告の本件原発地震想定だけが信頼に値するという根拠は見出せない」。

 かくして判決文の樋口曰く「一番大事なところ」は導出される。

 この地震大国日本において、基準地震動を超える地震大飯原発に到来しないというのは根拠のない楽観的見通しにしかすぎない上、基準地震動に満たない地震によっても冷却機能喪失による重大な事故が生じ得るというのであれば、そこでの危険は、万が一の危険という領域をはるかに超える現実的で切迫した危険と評価できる。このような施設のあり方は原子力発電所が有する前記の本質的な危険性についてあまりにも楽観的といわざるを得ない。

 

 本書の独自性にして最高のファインプレイは、裁判官へとそのフォーカスを向けたことにある。どうしても原発というインパクトに引きづられざるを得ないテーマを三権分立の問題へと換骨奪胎して再提示する、目から鱗が落ちるような感に駆られる。

 樋口により下された大飯原発の運転差し止めの仮処分には、あまりにみすぼらしい後日譚が続く。この判決の「後に、最高裁事務総局を経験したいわゆる『エリート裁判官』ばかり3人が同地裁に異動して、同年12月に、関電の異議を認めて仮処分を取り消す決定をした」。彼らが依拠したのは無論、伊方原発訴訟の最高裁判例である。審査規準を金科玉条に樋口が摘示した危険性をめぐってはひたすらの黙殺を貫いた。

 今一度、憲法76条の文言を引用したい。

 すべて裁判官は、その良心に従い独立してその職権を行い、この憲法及び法律にのみ拘束される。

 この条文には奇妙なねじれが付きまとう。つまり、個人の「良心」に依拠しなければ維持できないようなシステム設計の脆弱性を一方では謳い、そして他方では、その脆弱性への安全弁として設けられたのがまさに当の憲法であり、さらに例えば99条において「この憲法を尊重し擁護する義務」を裁判官その他の公務員へと負わせることをもって補強する。

 既に崩壊済みの社会にあって他と同様、裁判所に期待を寄せ得る余地などもはやない。しかし現に、「良心」と「独立」を毅然と示した人間がひとりと言わず存在していたことを確かに知る。本書の意義は、単に司法の域を超える。

 奇しくも「良心」に対応する英単語conscienceは、その語源をラテン語com-scientiaすなわち「共に‐知ること」に持つ。それぞれに「独立」な個人が、理性の導きによって近似的な結論を得る、かつてジャン=ジャック・ルソーが「一般意志」と名指したこの事態をもって「良心」は定義される。この演算アプリケーションの作動プロセスに人間性とやらを措定すべき余地はひとつとしてない。

 

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さよならテレビ

 

沖縄と核

 沖縄には、かつてどのような核兵器が、どのくらい配備されており、兵士たちはどのような思いを抱えながら任務にあたっていたのだろうか……。

 取材では、沖縄に核兵器が配備されることになった時代背景や国家の思惑を明らかにすると同時に、現場で実際に核兵器を扱っていた兵士たちの証言を集めること、そして、知らぬ間に核兵器と隣合わせでの生活を余儀なくされていた沖縄の住民たちの状況を明らかにすることを重視した。国家レベルの「大きな物語」と同時に、兵士や住民レベルの「小さな物語」を明らかにしてこそ、沖縄と核のリアリティに迫れると考えたからだ。(中略)

 取材の成果は、NHKスペシャル『スクープドキュメント 沖縄と核』(2017910日放送、50分)とBS1スペシャル『沖縄と核』(20171217日放送、99分)という二つの番組に結実した。

 番組では、住民の間近で行われていた核爆弾投下訓練の実態や、海兵隊核兵器の知られざるつながり、さらには1959年に米軍那覇基地で起きていた核ミサイルの誤射事故など、これまで埋もれていた事実を世に提示することができた。(中略)

 沖縄の本土復帰においても核兵器の存在は重要な役割を果たした。1960年代の末になると、アメリカの核兵器が配備されていることは沖縄でも徐々に知られるようになり、人々は、「異民族支配からの脱却」と「核兵器の撤去」を願うようになる。

 しかしその願いは、日米両政府による秘密交渉の末、「核抜き」の代償として、いわゆる「核密約」と「基地の固定化」をもたらすことになった。沖縄への核集中は、最終的に、〈沖縄への基地集中〉へと転化していったのである。

 

 テキスト内、一枚の衝撃的な写真が掲載される。それはかつての伊江島を捉えた航空写真。「よく見ると、島の北西部に、ちょうど弓矢の的のように、同心円状の白線が地上に描かれていることが分かる。航空写真にもはっきりと映るくらいなので、相当大きな的である。これこそ、爆撃訓練場とそこに作られたLABS訓練用の『的』である」。

 Low Attitude Bombing System、その頭文字を取ってLABS。上空150メートル、敵陣の「的」に深く入り込みつつも、その爆弾をリリースする直前から急上昇をかける、というこのアクロバティックな戦術には、無論、操縦するパイロットに強い重力負荷がかかる。なぜにこのような複雑な方式を取らねばならなかったのか。

「核爆発を起こす前に、パイロットが現場を離脱するための時間を稼ぐことができるのだ」。

「大型核」をもって敵国の都市を丸ごと焼き尽くすのではなく、低空から「小型核」を放つことで軍事拠点をピンポイントに狙い打つ、ただし同時に爆風は回避しなければならない、そんなマトリックスから要請されたLABSのシミュレーションが、1950年代の占領下の伊江島では日々、繰り返されていた。

 その演習用の土地を確保すべく伊江島で実行されたのが、「銃剣とブルドーザー」だった。以下に当時の記録を重引しよう。

 

 はじめに比嘉浦太(58)さんの家の床にブルドーザーのきっ先がくい込みました。「止めてくれ」と叫ぶ十名家族の比嘉さん一家の声もきかず、畜舎、納屋、水のない地方なので雨水をためる水タンクも無惨に破壊し、さらに散乱する家財の上からブルドーザーで土地をかぶせ後カタもなくすきならして了いました。

 又7名家族を抱えて働いている知念広吉(27)さんの家には武装50名位と作業兵30名が押しかけて来て、家族はすぐ家を出るように命令してきました。しかし知念さんの家には6才になる幼児が熱発して寝床にふせっていたのです。父親である広吉さんは「子供がこの通り病気だから、どうか暫く延期してください」と手を合わさんばかりに歎願しました。

 ところが米兵達はそれに答えようともせず、泥靴のまま座敷に上がりカヤを引きちぎり、病児を妻に抱かせ老母(65)と共に外に追い出し、広吉さんは5名の兵隊に引き出され銃剣の槍ブスマで取囲み、一歩も動かせず家財道具を作業米兵によって運び出されると見るや、知念さんの一家の住みなれた家はブルドーザーによって突き倒されました。

 

 何とも驚くべきことに、この収用をめぐる米軍の公式記録が表現していうことには、「侵略の決行日」“D-Day” for the “invasion”。紛れもなくインヴェージョンであることを自覚しながらも、悪びれるところはない。

 国家の大義とあらば、多少の犠牲はやむを得ない、遡ること十数年前の沖縄でも同様の惨劇が繰り広げられていた。もっともその主体は日本軍、『沖縄スパイ戦史』の記憶が蘇る。

 

 このドキュメンタリーをやがて果てなき戦慄が襲う。

「取材の過程で、沖縄に配備されたナイキ・ハーキュリーズが、大惨事につながりかねない重大な事故を起こしていた事実をつかんだ。核弾頭を搭載した1発のナイキが、誤って発射され、海に突っ込んだ、というのである」。

 この事故が那覇飛行場近くのミサイル基地で起きたのは、1959619日。

 1名が死亡、5名が負傷、このアクシデントは確かに翌日の現地紙でも報道はされた。しかし事故は発火火薬の暴発によるものであるとされ、核弾頭に関しては一切触れられてはいない、あくまで米軍当局のプレスリリースをなぞるに過ぎなかった。

 原因は、ブルー・アラートに浮足立った伍長とそもそもの人員不足が招いた、マニュアルからの初歩的な逸脱だった。ミサイルは水平状態で発射され、そのまま海へと滑落した。ちなみに、このナイキは引き上げられることもなく、今なお深くに眠っているという。

 なお、この出来事にはとんでもないオチがつく。敵機の侵犯を受けて発信されたはずのこのブルー・アラート、実は抜き打ちのテスト演習に過ぎなかった。

 証言者によれば、この際に搭載されていた核弾頭の破壊力は広島に投下されたものとほぼ同等、地上に留まっていたこの段階で核分裂が誘発されていることはなかっただろう、「核爆発は起きないようになっていました」との証言におそらく偽りはない、しかし、抜かずの秘刀のはずの核がこれほどまでにお手軽に放てるようなセットアップが沖縄の地では日々、進められていた。

 そしてこの事実は、当然のように、現地住民には告知されていなかった。

 このとき起き得たかもしれない最悪のインシデントといえばたぶん、容器が吹き飛んで放射性物質がばらまかれてしまったこと。前もって何一つ知らされていない周辺のオキナワンが、寝耳に水で事故の発生を聞かされたところで、的確な安全措置を自らに講じ得たかは極めて危うい。地元自治体に動線設計等の備えがあったはずもない。米軍サイドにおいても、トラブル・シューティングの手引きやリソースが用意されていたかすらも定かではない。

 

 1961年、時の国防長官、ロバート・マクナマラは、米軍の幹部に宛てて一通のメモ書きを送った。「琉球列島への兵器と部隊の配備について」との文書において、このミスター・ベスト・アンド・ブライテストが言うことには、「メース〔ミサイル〕については、『その話題をできるだけ少なくするに限る』ということだ」。

「話題をできるだけ少なくするに限る」。

 奇しくもこの一文が本書全体を貫く。

 テレビも捨てたものではないな、と感心する、つまり、2017年においても、こうした「話題」をきちんと掘り出した一編のドキュメンタリーが放送されていたのだ、というその一点において。

 そして同時に愕然とする、本書を手に取るまで、このことがまるで伝わってきていなかった、というその事実に。おそらくは他のメディアによる後続報道もなかったのだろう、「話題」は瞬時にフェードアウトを余儀なくされた。

 沖縄の歴史を伝えるこのドキュメンタリーは、皮肉にも現代メディアの写し鏡をあらわさずにはいない。

「話題をできるだけ少なくするに限る」。

 もはやそんな火消し役でしかあれないマス・メディアに向けて、哀悼の意の他に何を示すことができるだろう。

 見たいものだけを見る、見たくないものは見ない、そうして「話題」を自ら閉ざした国民感情とやらの先に待つのは破滅でしかない。

 真実は人間と違って忖度などしてくれない。

 

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Love at Goon Park

 

 生活をいっそう困難にし、悲しいことに、ときには生きていくことさえできなくなるような激しい感情の嵐に苦しむ動物は人間だけではない。このことに1世紀上も前に気づいたチャールズ・ダーウィンと同じように、わたしもまた、動物も人間が苦しむのと驚くほど似た精神疾患にかかる可能性があると信じている。……

 わたしが本書でおこなってきたのは、獣医学、薬学、心理学の研究や、動物園の飼育員、アニマルトレーナー、精神科医神経科学者、ペットの飼い主たちの話、19世紀の博物学者、現代の生物学者や野生動物学者がおこなった観察、そして奇妙な行動をする身近な動物について素朴に何かを言いたいという多くの一般人からあらゆるエビデンスを引き出すことだ。こうした糸のすべてをたぐり寄せると、人間と動物では、歪んでしまった精神状態や行動がわたしたちの多くが考えているよりもはるかに似ていることがわかる――……人間であろうとなかろうと“生きもの”として正常とされることに関わることができなくなったとき、こうした異常行動は精神疾患の領域に踏み込んでくる。これは、毛が抜けて血がにじみ出るまで自分の尻尾を舐めつづけることに一心不乱なイヌや、休むことなく何周も泳ぎつづけることに固執するアシカ、悲しみのあまり引きこもり、仲間たちと追いかけっこをして遊ぶこともできなくなったゴリラ、そして身がすくむほどエスカレーターが恐くて、デパートに行くのを避けるようになったヒトにも言えることだ。

 

 例えば筆者の飼い犬のオリバーは、シッターが留守にしている隙に、金網を引き裂いて、アパートの窓から15メートル下の地面へと飛び降りた。

 己の毛を引きちぎり、もはや飛ぶことすらできなくなっていたオウムのチャーリーは、自分の脚でも何とか登れる小枝から地面に突き出た金属の杭にダイブして、その心臓を貫いた。

 本書で報告される数多のこれらサンプルをもって、自殺と呼ぶことはあるいは安直な擬人化でしかない。オス同士のヒエラルキー争いに敗れた失意のレックスが首にチェーンを絡ませて窒息死していたとして、このライオンが死を理解した上で自ら進んでこの手段を選び取ったと本当に断言していいものかは、極めて慎重な留保を要するところだろう――ヒトの場合とは違って。

 いっそのこと本書は擬人化の誘惑に負けてしまった方が、むしろいくらかの救いの余地はあったのかもしれない。擬人化されない、人間と同様のガイドラインが適用されない、だからこそ、病める精神の肖像が赤裸々に本書には表出されてしまう。

 

 そのエクストリームなサンプルが、ミルウォーキー動物園にやってきたボノボのブライアンのケースに観察される。「スタッフはすぐに、彼の精神的ニーズはこれまで見てきたすべてのことを超越しているのに気づいた。……/自分の爪を剝がしたり、肛門から直腸に思い切り拳を入れて流血したり、尖ったもので自分の性器をこすったり、壁の方をぼうっと眺めたり、飼育員に対して極度に攻撃的になったりもした。また、見たこともない物体を怖がったので、自傷行為から気をそらせようと新しいおもちゃやパズルを与えても、彼をさらに動揺させるだけだった」。

 この自己破壊衝動を前にして、医師がまず試みたのは、ブライアンの来歴を探ることだった、奇しくも人間において施されるのと同じように。果たして病因はすぐさま露呈するところとなる。

「ブライアンはアトランタにあるエモリー大学の、ヤーキス国立霊長類研究センターで生まれ、最初の7年間、このセンターで、たったひとりの身寄りである父親からのアナルセックスと恫喝を受けながら育った。アナルセックスはボノボでも普通はやらない行為で、性的暴行はめずらしいことだ」。

 たぶん人間の児童虐待に関わるものであるならば、自傷のシーンを含めて、ここまで露骨な表現に走ろうとすれば、何かしらのガイドラインが発動する。プライヴァシーへの配慮も当然に欠かすことはできない。しかし、こうした気遣いが案件にかぶせてしまうヴェールの数々が、皮肉にもしばしば受け止める側における事態の矮小化を招いてしまうこともまた、否めない。

 ある種の過大評価でしかないのかもしれない。この書き口は単なる筆者の無頓着の産物を超えない、そう思わずにはいられない箇所もひとつやふたつではない。

 けれども、刺さる。

 人間と動物は同じではない、だからこそ、かえって刺さる。

 

 このままでは救いがないので、一応、彼のストーリーの続きも付記しておこう。

 彼にはパキシルやバリアムといった薬物療法も施された。スタッフたちは、不安とパニックに駆られる彼の「世界を安全で予測可能なものにしようと試みた。食餌はすべて毎日同じ時間、同じ場所に出した。昼食のあとは、毎日静かな時間を与えた。……新しいものを導入するときは徐々に行い、彼が自分のペースで眺め、触り、それに慣れることができるようにした。毎日のトレーニングセッションは短くし、ポジティヴなかたちで終わらせるようにした」。

 けれども、おそらくは最も決定的だったのは、「ブライアンよりずっと若い子どものボノボとチームを組ませ、遊びという行動を彼に教えることでした。23歳の子どものボノボとペアを組めば、そこから学ぶことができます。子どもが幼稚園に通うのも同じ理由だと、みな知っています。そこで社会的スキルを身につけるのです。ブライアンはずっと昔に遡って、成長に必要な適切な遊びの行動を学ばなければなりませんでした」。

 そもそも「ボノボ社会は女系である。母親と年配のメスが、若いボノボの成長には極めて重要だ。集団子育てのシステムがあり、オスの子どもが母親といっしょにいる期間はメスの子どもよりも倍も長く、オスはこれによってコミュニケーションのしかたや食べ物の共有のしかた、論争の解決方法、自分を性的にアピールする方法を学ぶ」。

 かくしてこのブライアン、ついには群れのリーダーにまで上り詰めた。

 

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