午後の死

 

「ねえ、ジェイク」彼はカウンターの上に身を乗りだした。「きみは、人生がどんどん過ぎ去ろうとしているのに、その人生をすこしもうまく使っていないと感じることはないかね? もう人生の半分ちかくが過ぎてしまったと感じてぎくりとすることはないかね?」

「うん、ときどきそう感じることがある」

「あと35年もすると、ぼくらは死んでしまうんだぜ」

「何を言ってるんだ、ロバート」ぼくは言った。「ばかばかしい」

「ぼくは本気だ」

「そんなことは、おれは気にしないことにしているんだ」

「考えるべきだよ」

「おれには、ほかに気を病むことがたくさんあるんだ。これ以上くよくよするなんて、もうごめんだよ」

「とにかくぼくは南米へ行きたい」

「いいか、ロバート、ほかの国へ行ってみたところで、どうなるもんでもないぜ。おれは経験ずみなんだ。一つの場所から他の場所へ移ってみたところで、自分からぬけだせるもんじゃない。どうにも処置なしさ」

 

 そう、どうなるもんでもない。

 そんなことは分かっているのに、「ぼく」ことジェイコブ・バーンズは祖国アメリカを離れ、パリをさまよう。そして現に、どうにもなっていない。「ぼく」にできることといえばせいぜいが酒をあおることくらい。代わる代わる飲みの席で友人知人が現れては何かしらことばを交わす。例えばドストエフスキーのもはや会話とも呼べない何かとは似ても似つきようがない、まるでおうむ返しのようなショートなタームを往復させる中で、やはり結局、どうなるもんでもない、そこにいかなる化学反応も導かれることはない。

 ここではないどこかに今なお何かしらの希望を思い描くロバートと、ここではないどこかなるものがこことさして変わることもないことを予め分かり切った「ぼく」、この対比は異性をめぐっても表れる。

「ブレットは、とても美しかった」。そう唸りつつも、戦争の後遺症でインポテンツを引きずる「ぼく」は、どこかこのヒロインにも没入しきれない。対してロバートは、それまでのパートナーをあっさりとリリースして、まるで新大陸にたどり着いたかのようにブレットにすっかり一目惚れ、もっとも彼女はまるでつれない。

 やがて舞台はスペインへ。闘牛の祭りを目当てに集った彼らは、たちまちひとりのマタドールに目を奪われる。他の一群が「実はまったく安全なくせに、見せかけの感動を盛りあげようとする、まやかしの技巧ばかり」の輩なのとは対照的に、その青年ペドロ・ロメロは「古い伝統をまもり、最大限に危険に身をさらして純粋な線の美しさを保ち、しかも自分が突き殺せる相手でないことを牛にさとらせながら牛を威圧し、最後の一撃への準備を着々とすすめるのだ」。

 命がけの闘牛、それはまるで戦地のような。「ぼく」やその周辺が従軍経験を通じて燃え尽きて失ってしまった何かがロメロの中には確かにあった。もしかしたら彼は「どうなるもんでもない」こともない。恋多きブレットは年下の彼にたちまちにして魅せられる。

 もっとも彼女とて、「自分からぬけだせるもんじゃない」。彼女のかつての夫であるイギリス貴族は、「いつもブレットを殺してやると口走っていたそうだ。どんなときでも実弾をこめた軍用ピストルを抱いて寝ていた。ブレットは、そいつが眠るのを見すましては、そっと弾丸を抜きとっていた」。ここに「ぼく」と全く同じ去勢のモチーフが反復される。つまるところ、不能なパートナーに吸い寄せられずにはいられない彼女もまた、誰とベッドを共にしようとも、何が満たされることもない。恋愛とやらは、現実を束の間忘れさせてくれる、「ぼく」における酒と同じ機能しか果たしようがない、あるいはそれは祝祭とも限りなく似る。

 そうして「ぼく」とブレットは、「どうなるもんでもない」空回りの無限ループへと戻っていく。

Love Lockdown

 

 もはやすべて過去だ。しかし、多くの人間は過去を置き去りにできない。しかも、ある重要な点で、これは現在の物語でもある。わたしたちはこの時代の長い影の中でいまだに生きているのだから。

 壮麗なホテルのダイニングルームに一歩入れば、戦争を賛美することも陰謀を巡らすことも一時的に中断された――少なくとも表向きは。占領時代のドイツ軍将校たちは軍服を脱ぎ、しばしばフランス語で会話した。彼らといっしょに食事をするパリジャンたちは、社交の場では慎重に中立の姿勢を貫いた。ランチをとりながらの「円卓会議」では、デザイナー、会社経営者、外交官、政治家のあいだで、協力することには経済的意義があるという結論が出された。ホテル・リッツでのそうした会話は今日のEUの土台となっているのだ。……

 第二次世界大戦の歴史があまりにも簡略化されて、白か黒かで、つまり善の軍隊と悪の軍隊のあいだの壮絶な戦いとして語られることが多いのも事実である。抵抗をした人々もいたし、対独協力者がいたこともわかっている。そしてもちろん、きっちりとひとつのカテゴリーにおさまらない行動をとった人たちも、たしかに存在した。しかし、占領下でパリに住んでいたほとんどの人間にとって、生き延びられるかどうかは、戦争の現実を適切なニュアンスに変えられるかどうかにかかっていた。ホテル・リッツでは、白と黒が交じり合って濃い灰色になり、その空間では驚くべき出来事が起きていた。そうした灰色のエリア――勇気や欲望が残虐行為や恐怖とぶつかり合う場所では、すばらしい人間の物語が存在した。本書は彼らの生と死と危険な出会いの驚嘆すべき歴史を描いている。そして、すべては常に魅惑的なパリのヴァンドーム広場で起きたことなのだ。

 

 巻頭に「主要登場人物」なる資料が付される。

 ヘルマン・ゲーリングウィンストン・チャーチルロバート・キャパマルセル・プルーストアーネスト・ヘミングウェイウィンザー公爵、マレーネ・ディートリッヒ、ココ・シャネル――

 それは果たして戦史か、文化史か、外交史か。これら散り散りの点を線とする20世紀ヨーロッパ史を編まんとすれば、通常、いったいどれほどの文字数を要することだろう。

 しかし本書はその作業をいともたやすく成し遂げる。というのも、彼らにはある共通項が横たわっているのだから。

 つまり、ホテル・リッツを愛したという。この舞台にさらにユダヤ人という問題軸を加えれば――

 

 開業のその瞬間から既に、ヴァンドームは分断の影に包囲されていた。

 前時代的な形式主義に別れを告げて、機能美に満ちた「現代的な贅沢」を提供する、そうして1898年、ホテル・リッツはパリの超一等地に産声をあげた。「たしかに家具は古典的で高価なルイ14世やルイ15世様式だった。しかし、すべての部屋は現代的にデザインされていた。セザール・リッツ[創業者]は結核コレラが宿泊客のあいだに広まることを極度に恐れていて、衛生に万全の注意を払ったからだ。厚手のカーペットやカーテンはほこりと細菌を集めるという理由で避けられ、寝室は作りつけのクローゼットや専用の水道設備のあるバスルームなど、最新式の改装をほどこされた。スイス人らしく精確さに情熱を注いだので、各部屋の壁にかけられたブロンズの時計は正確に時を刻んだ」。

 時を同じくして、パリの街はドレフュス事件で持ち切りだった、ユダヤ人将校がユダヤ人であるというだけで裁判にかけられ、ついには有罪を言い渡されたあの事件で。

 ホテル・リッツのその機能美が、エミール・ゾラを嚆矢とする先進的ないわゆる「知識人」を惹きつけてやまないのもいわば当然だった、そして同時に、古き良き貴族的幻影の再来を願ってやまない層からの反発を誘うことも。もちろん、前者は軒並み悲劇のアルフレッドを擁護し、後者は糾弾を断固として支持しただろう。

 リッツのオープニング・パーティーの催された「その夏の夜、マルセルはひとつの時代がゆっくりと始まるのを目の当たりにした――すでにベルエポックはすたれかけていた」。このホテルがなければ、彼が失われた時を求めることもあるいはなかったのかもしれない。

 

 アヴァンギャルドをスタンダードに変えるのに、40年という時は十二分に過ぎるものだった。

「映画スターや有名作家、アメリカの女性相続人、色っぽい愛人、プレイボーイ、王子たち」がそうしたように、やがてパリの街を占拠するナチスもまた、名門が提供するホスピタリティに恋焦がれずにはいられなかった。1940614日、パリを落としたドイツ軍将校たちがまず何をしたか――リッツのダイニングで勝利の味に酔いしれた。「ドイツの白ワインで蒸した舌平目、ローストチキン(おそらくフランス産)、オランデーズソースをかけたアスパラガス、お好みのフルーツ……まさにドイツ人がフランス料理を選んだことを象徴する出来事だった」。

 中立国のスイス人によって営まれるホテルは、そのスイートを元帥に明け渡してなお、「パリにおけるスイス、中立地帯となった」。あのヨーゼフ・ゲッペルスですらも、「もっとも重要で例外的な地位を」認めずにはいられなかった。かくして世にも奇妙なセパレーションがここに成立する。「ホテル・リッツの半分はナチスの欲望を満足させるための排他的な隠れ家になったが、カンボン通り側とバーとレストランは一般人にも開放していた。フランスと中立国の市民たち、それにホテルに住むことを許された芸術家、作家、映画スター、脚本家、興行主、デザイナーといったエリートたちのグループに」。

 

 形勢はノルマンディーをもって逆転、やがてナチスはパリの街を追われる。

 19448月、解放の歓喜のこだまに包まれながらその従軍記者が朽ち果てた花の都でまず何をしたか――リッツに部屋を取った。ベストセラーの売り上げを片っ端からバーに注ぎ込み蕩尽した、そんな甘い日々の記憶を彼は一時として忘れることがなかった。「おれはアメリカ人だ。古きよき時代のようにここで暮らすつもりでいる」。あろうことか、彼は先着していたイギリス兵を追い払いさえした、それもドイツ語で。田舎者を絵に描いたような傍若無人なこの男、果たして「武器よさらば」と言ったとか、言わないとか。

 のち、そのバーには、彼の名前が冠された。

一人称単数

 

 作家である「僕」ことウィリー・アシェンデンのところに旧友のロイから一本の電話が届く。ランチを共にしたい、との旨。さて用件は何だろう、としばし推察をめぐらせる。

 会員制クラブのがらんとした個室で中年男二人で差し向かい、「食事の注文の仕方となるとロイの右にでる者はいない」そんな彼が吟味したフレンチを食す。あれやこれやと回りくどい雑談を重ねた末、果たして本題は、「ヴィクトリア朝最後の作家」エドワード・ドリッフィールドだった。この「現代最高の作家」を偲ぶ伝記をしたためるべく、駆け出しの頃の彼と交流を持っていた「僕」から逸話を引き出したい、それがロイの狙いだった。

 別れ際、彼が切り出す。

「君は最初の結婚相手を知っていたのだろう?」

 

『お菓子とビールCakes and Ale』。この表題はすなわち、ドリッフィールドのふたりの妻を暗喩する。

 最初の出会いは、学生時代に一時帰省した郷里ブラックスタブルに遡る。牧師を叔父に持つ「僕」と、飲み屋の店員だった妻を持つドリッフィールド、つまり階級を異にするふたりが交わる。自転車の乗り方からはじまったお坊ちゃまへの手ほどきは、直接に文学論を戦わせることはなくとも、やがて小説への影響も持たずにはいない。叔父やその周辺に言わせれば、ドリッフィールドの作品に登場するのは、「世の中に下卑た、下品な人」、しかし「ぼく」は彼の家に出入りして、そうした人々とも関係していく中で、自らの属す上位カーストの軽薄さにやがて目覚めることとなる。その雰囲気を醸成したのはもちろん、「ビール」こと妻ロウジーだった。

 ところが時は流れ、文壇での地位を確立するにつれ、ドリッフィールドもやがてそうしたクラスの住人と化していく。果たして何が変わったか? そう、妻が変わった。風流人のロイをしてうならしめるこの「お菓子」の高貴なる社交術は、夫のパブリック・イメージをも刷新してみせた。「僕」は彼女に乞われてブラックスタブルの邸宅を訪れる。かつて父が管理人として仕えたその家を、エドワードは念願かなって買い上げた。「トッテナム・コート通りの家具店の見本みたい」、つまりは成金趣味ではりぼてのその内装を、妻エミイは人知れずこっそりと上級品と入れ替える。いくつもの作品を書き上げた思い入れひとしおの机すらも、いつしか「優れた時代物」に変わり、そうして出来上がった書斎を訪れる。「お膳立ては完ぺきだった。しかし、なぜだかわからないが、部屋は奇妙に生気がなかった。すでに、博物館のカビ臭さが感じられた」。

 

 変わってしまったエドワード・ドリッフィールドを映し出すこの試みは、実のところ、まず何よりも変わってしまった「僕」自身を映し出す試みに他ならない。

 作中、不意に独白する。

「この本を第一人称で書かなければよかったのにと思う。……

 小説家は時に自分を神のように思って、作中人物についてあらゆることを述べようという気になることもある。また、時にはそういう気にならないこともある。後者の場合、作者は作中人物について知るすべはなく、作者自身が知っていることだけを述べることになる。人は年とともにますます神とは違うと感じるものだから、作者が加齢とともに自分の経験から知ったこと以外のことは書かなくなると知っても僕は驚かない。第一人称はこの限られた目的に極めて有効なのである」。

「神」は登場人物を作る、「第一人称」は登場人物によって作られる。あくまでこの小説のフォーカスは、一見狂言回しに徹しているはずの「第一人称」としての「僕」へと向かわずにはいない。エミイとローズによってエドワードが作られたように、記述される周辺によって「僕」もまた作られる。

 

 その象徴的なシーンが、ロウジーをめぐって描かれる。

 ブラックスタブルを夜逃げしてから5年、作家として名を成したドリッフィールド夫妻とロンドンで再会した「僕」は、彼女の美しさにすっかり打たれる。パーティーに出入りしていた画家によるロウジー肖像画に至っては、「誰かが鋭いナイフをそっと僕に差し込んだよう」な「痛いのだが妙に良い気分」を植えつけずにはいない。振り返れば初対面のときには、「彼女が綺麗かどうかなどまったく思いもしなかった」というのに。

 そして件の肖像画と数十年の時を経てまみえることとなる。

「これこそ僕の記憶にはっきりあるロウジーだ。古風な服装にもかかわらず、彼女は生き生きとしていて、漲る情熱におののいているようだった。キューピッドの矢を進んで受けようと構えているようだった」。

 しかし、ロイや「お菓子」の反応は極めて酷薄なものだった。

「がっちりした体の田舎娘」。

「色白の黒ん坊」。

 

 そしてまるで合わせ鏡のような、玉手箱のような、とんだクライマックスを本書は迎える。

 エドワードを捨ててアメリカへと駆け落ちし、その後亡くなったと風の噂に聞いていたロウジーはまだ生きていた。ニューヨークのアパートメントに彼女を訪ねる。壁にかけられていたパートナーの写真にふと気づく。

「僕」の目には「めかし込んだパブの主人」、しかし「ビール」に言わせれば「完璧な紳士」。

 そのいずれが真相を示しているのかなど、藪の中の住人である「僕」なる「第一人称」はまさか知る由もない。

 それでもなお、「僕」は書かずにはいられない。なぜならば、「いかなる感情でもいかなる苦しみでも、それを文章に書いてしまって、物語の主題やエッセイの添え物として活用しさえすれば、すっかり全部忘れられる。自由人と呼べるのは作家だけである」のだから。

 

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Back in Black

 

 私は精神科医ではないけれど、今なら分かる。人は自分がDCdonor conception]だと知ったとき、皆いくつか同じ感情の段階をたどる。他のあらゆるプロセスと同様、これにも個人差がある。通らない段階もあれば、抜け出すのが難しい段階もある。

 私の場合、初めは深い悲しみだった。実の父だと思っていた男性は、私が15歳の頃に亡くなった。それから12年が経った今、私の記憶はまた葬儀の場面に戻っていた。アデレードは焼けるように暑く、蝉の鳴き声が響いている。光景は同じだが、私はあの頃と同じではなかった。私は招かれざる客だった。私は初めから彼の娘ではなかったのだから。

 たとえ誰かを亡くしたとしても、その人を愛していれば、彼らは永遠にあなたたちとともにある――私はずっとそう信じていた。この思いが励みになっていた。

 だが、私は嘘をつかれていた。自分が滑稽に思えた。その信念さえ失ってしまった。(中略)

 本書は、ドナー提供配偶子(精子卵子)・胚(受精卵)による懐胎――世間の想像以上に異様で、おそらく世間の認識以上に浸透したもの――について書かれたものである。親になりたいという願望について書かれた本ではない。自身の生殖細胞を用いて不妊治療を行うカップルについて書かれた本でもない。本書は、第三者生殖細胞から誕生した人間について書かれた本である。社会的な関係からではなく、採取された人間の組織から生命を作ることについて書かれた本である。

 本書は、人間を繁殖させることについて書かれた本なのだ。

 

 筆者はオーストラリアのジャーナリストであり、かつ、精子提供によって生を享けた人間でもある。そんな彼女が自身の生誕の秘密をドキュメンタリー化する。

 とはいえ、予め言ってしまえば、本書はある面ではひどく単調な履歴を辿る。病院に問い合わせても、政府機関に尋ねても、たらい回しに次ぐたらい回しで、一向に真相に接近する気配はない。多少のネタばらしをしてしまえば、実は筆者は別のアプローチで、精子を差し出した生物学上の父とやがて対面を果たしはするし、そしてその過程で同じ治療プログラムに基づいて誕生した異母姉妹にも出会いもする、ただしそれらはほぼ何らの公的機関の調査も媒介としない。

 もっとも、それらのペーパーワークが全くの空振りに終わるのも必然なのである。なにせ、一連の医療行為に関わる記録がそもそもにおいて保存されていなかったのだから。無から有は作れない、まさか子どもでもあるまいに。

 あるタイミングで、筆者は自らの人工授精をめぐる資料をついに受け取る。A4用紙2枚、たったそれだけ、しかも、肝心のドナーコードは切り落とされていた。曰く、「当時のスタッフには破棄する権限がありましたし、その行為は違法ではありませんでした」。今般の開示にあたって慌てて削除されたわけではなく、とうの昔に原本から失われていた。理由として推定されるのは、ひとりのドナーによる精子が膨大な数の治療行為へと用いられたこと、しかしそのことを証明するための資料すら残されていない。専らこうした証拠の欠如は過誤を犯した側の有利にはたらく。

 このテキストは、パーソナルなプライバシーを差し出してでも、DCをめぐる真相にたどり着こうとする筆者個人の物語ではない。そのストーリー・テリングさえも不可能にしてしまう、彼ら政府機関や医療システムの不完備をめぐる歴史である。

 あるいはそれは制度設計や運用の巧拙の問題ですらないのかもしれない。蚊帳の外に置かれ続ける彼女の姿が象徴する、子どもは親を選べない、その非対称性の残酷さがDCという医療行為に極北として示される。DC児には自分がそのプロセスを経て生まれていたという事実を変えることはできない、生まれてくるその仕方を決めることはできない。ある日、自分に100人の異母兄弟がいること――生身の性交渉によっては養育その他のコストというスタビライザーの作用により実現されることはまずない――を知らされてもどうにもできない、ただし例えばエイズ等の遺伝的発病や近親相姦といったリスクはすべて所与のものとして彼らに降りかかる。

 ここに至って自己決定権という物語は決定的に破綻する。そこに決定される客体としての自己はいても、決定する主体としての自己はいない。

 

 ひときわ印象的な登場人物がある。レルという。彼女もまた、DCを通じてこの世に生を受け、15歳にしてその事実を両親から知らされ、やがてロビイストとなった。自らの誕生に携わった医療機関に問い合わせるも梨のつぶて、しつこく食い下がり数年、ようやく精液のドナーに「T5」なるコードが割り振られていたことを引き出す。

 そしてその頃、28歳にして彼女は悲劇に襲われる。突然に大腸が破裂し、ステージ4の末期がんに蝕まれていることが発覚する。担当医が言うことには、若年としては稀なこの進行は遺伝的要因に由来する蓋然性が高い。母系にはがん患者はいない、だとすれば消去法的に「T5」に依拠する可能性が浮上する。もしそのリスクを予め知っていれば、スクリーニング検査による早期発見もかなっていたかもしれない。

 ある政治決断により「T5」の正体は割り出され、両者はついに対面を果たし、そしてその6週間後、レルは亡くなった。

「死から3年近くが経った後、ついに世界で初めての法律がビクトリア州で成立した。DCで生まれたすべての子どもに、ドナーの身元を知る権利が与えられたのだ。この法には接触拒否権も明記されていた。(中略)

 レルと出会ったからこそ、レイ[レルのドナー]はDCで生まれた他の4人の実子を見つけられた。この子どもたちにも大腸がんの検査を受けるように伝えられたと彼は語っている」。

 もちろん、これしきのことはいかなる慰めも与えない。生まれてさえ来なければ、自らのアイデンティティに葛藤することもなかっただろう、「権限を持つ人々が誰一人として、DC児の思いや願い、ニーズに正面から向き合おうとしな」い、そんな不条理に怒り悩まされることもなかっただろう、がんの痛みにのたうち回ることもなかっただろう、そう、生まれてさえ来なければ。

死と乙女

 

 私と山村美紗とでは、本の売り上げ、知名度、華やかさ、何もかも違いすぎる。けれど、美紗について調べて、何よりも印象に残ったのは、彼女の「自身のなさ」だった。あんな有名な作家が、自分と同じ苦しみを抱えていたのかと思うと、胸が痛んだ。

 実のところ、それは多くの作家が抱いているものであるのかもしれない。

 そして、また知れば知るほどに、彼女の「女」としての魅力も気になった。複数の男たちの心を捕らえ、亡くなったあとも執着させる山村美紗とは、どんな女性だったのか。

 山村美紗を書きたい――改めて、強くそう思った。

 

 現代のノンフィクション市場の水準に照らせば、本書はいかにもつらい。

 今日ならばまだ存命の関係者も多く残っていようはずなのに、そのあたりへの取材が広く行われた形跡もない、少なくともテキストには反映されてはいない。

 微に入り細に入り彼女の作品を読み込んで快刀乱麻のアナライズを披露する、そんな場面に出会えることもない、というかはじめから、そんなリソースが投与された形跡もない。

 はっきり言えば、情報量にひどく乏しく、生煮えとの感は否めない。

 

 しかし、だからこそ、時に埋められてしまう空隙がある。

 山村の履歴だけでテキストを覆い尽くすことができないのならば、そのブランクは自身を投影、同化させることで満たしてしまえばいい。表現主義の系譜に限りなく似て、図らずもかけられたその補正が、本書に謎の生命力を与えずにはいない。

 文中、繰り返されるエピソードがある。京城で過ごした小学生時代にエントリーした作文が、2000点以上の候補の中から見事選ばれ、作品集に収められたことがあったという。まだ何者でもなかった山村美紗を辛うじて支えたのが、この些細な成功体験だった。

 本当のところ、山村がそう思っていたのかは分からない、しかし、このくだりには奇妙なまでの説得力がある。たぶん、と私は推察する、花房を支えるのもまた、同種の成功体験だったのではなかろうか、と。

 感情は時にファクトを凌駕する、してしまう。

 

「何もかも本当のことをさらけ出す必要なんて、ないのだ。

 作家は噓を吐くのも仕事なのだから。

 人々が失望する事実よりも、喜ぶ嘘を描くのが、作家だ」。

 自身のプライヴェートをミステリーに仕立てた山村を評するに、この文章が適切かどうかなど知る由もない。しかし、ここには紛れもなく、花房観音の叫びがある。

山村美紗サスペンスのヒロインは、山村美紗自身だった――」ように、本書の事実上のヒロインもまた、花房観音という筆者自身だった。

 

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