南北戦争の傷跡を残した1870年代のアメリカはカンザス、ブッチャーズ・クロッシングにハーバード中退の青年、ウィル・アンドリューズが父の知己を頼って訪れる。
「ぼくがここにきたのは――」
そして彼は言葉に詰まる。「言いたいことを頭の中でまとめようとした。それは、ひとつの感情だ。話したいという衝動だった。しかし何を話そうとも、自分が探し求めている自然に、また新たな呼び名をつけることにしかならないことはわかっていた。それは日々の生活の中にあたりまえのように巣くう、すべての自由でないもの、善でないもの、希望のないもの、活力のないものの根底に見える自由であり、善であり、希望であり、力であった。アンドリューズは自分の住む世界を生み出し、保持してきた源を突きとめたいのだ」。
そこで紹介された腕利きの猟師ミラーは、かつてコロラドの山中で見たバッファローの群れについて語り聞かせる。
「興味を持ちました」。
そうして彼らは旅に出る。
獲物を求めてグレートプレーンズを横切りロッキーを目指す。「マニフェスト・デスティニー」に突き動かされてフロンティアを目指す、アメリカン・スピリットの化身のような舞台設定。
とはいえ物語の作りとしては、むしろ日本人にこそ馴染み深い要素を内包する。『西遊記』あり、『八甲田山』あり、『浦島太郎』あり、お供目線の『桃太郎』、そんな見立てもできるだろう。
行きて帰りし物語、その典型と見せて、軽やかな裏切りを重ねる。
通過儀礼の基本形としての童貞喪失、かと思いきや「だめだ!」
捕らえたバッファローの肝臓を勧められると、「アンドリューズの喉に苦いものがこみ上げてきた。突然、胃が痙攣して、ぎゅっと縮み、喉の筋肉が収縮して息が苦しくなった。彼はくるっと背中を向けてふたりから二、三歩離れ、一本の木に寄りかかると、体をふたつに折って嘔吐した。しばらくしてから、ふたりのほうへ向き直った。『あとはまかせる』アンドリューズは大声で言った。もう『たくさんだ』」。締まらない。
果てなき前進を信じるアメリカに仮託して成長の不可能性を告発する、その精緻な文体を通じて密やかに換骨奪胎が図られる。
「若者ってやつは、いつも一からはじめたがる。わかってるよ。自分が何をしようとしているか、ほかの人間に知られてるとは思いもせんのだろうな」
「思ってもみませんでした。自分でも何をしようとしているのか、わかっていなかったからかもしれません」
「いまはわかってるのか」
アンドリューズはもじもじと身じろぎをした。
「若者ってやつはな」マクドナルドはばかにしたように言った。「いつも、何か発見があると思ってる」
「ええ」
「だが、何もないんだよ。人は生まれると、嘘を乳代わりに飲み、嘘を食って育ち、学校に上がったら、もっとうまい嘘を覚える。一生、嘘に生きる。それで死期が近づいて、はじめて悟るんだ。何もないってな。自分と、自分にできたかもしれないことのほかには何もない。それをやり遂げなかったのは、ただほかに何かあるっていう嘘を教えられたからさ。世界中を自分のものにできたかもしれないってことも知る。なぜなら、自分だけがその秘密を知ってるからだ。けど、もう手遅れだ。年をとりすぎて」
巻末の訳者によるあとがきに虚を突かれる。
原著の出版は1965年、つまりベトナムの泥沼も「成長の限界」論も知らなかった、あの古き良き時代のただ中、そしてその終焉に、この小説は書かれた。ノスタルジアの裏側で明白に刻まれた予言の意味を同時代人に読み解くことなどできるはずもなかった。
「ぼくは自分のためにここに来たんです」。
こう言ってのけた瞬間、こう言うより他になかった瞬間から既に、アンドリューズは結末を知っていたのかもしれない。そして同時に、結末など持てないということも。
それでも夜は明けて、太陽は東を発って西へと向かう。そして彼も同じ軌跡を辿るだろう。
何はともあれ、世界にはまだ続きがある。