欲望の資本主義

 

巨乳の誕生 大きなおっぱいはどう呼ばれてきたのか

巨乳の誕生 大きなおっぱいはどう呼ばれてきたのか

  • 作者:安田 理央
  • 発売日: 2017/11/18
  • メディア: 単行本
 

 

 本書は、大きなおっぱいの魅力について熱く語る本ではないし、なぜ男性が大きなおっぱいに惹かれるのかの理由を探る本でもない。ましてや、おっぱいを通してジェンダーについて考える本でもない。

 雑誌やテレビ、映画、そしてエロ本やAVといったメディアが、大きなおっぱいをどう扱ってきたのか、その変遷をたどろうというのが、本書の趣旨である。

 その始まりは、紀元前にまで遡り、ヨーロッパからアメリカ、ハリウッドへ。そして日本では江戸時代から、開国、敗戦、経済成長を経て現在へ。社会の「大きなおっぱい」の受け止め方は常に変わっていく。

 アダルトメディアは、ユーザーの欲望をダイレクトにすくい上げて商品化する。大きいおっぱいのAVが増えるのは、ユーザーが大きいおっぱいを見たいと望むからだ。

 考えてもみて欲しい。確かに日本の女性の胸は、戦後どんどん大きくはなっているが、巨乳ブームが来たからと言って、女性の胸が突然大きくなるはずがない。以前から胸の大きい女性はいたのだが、それまでメディアに登場していなかっただけなのだ。

 おっぱいの大きい女性が見たいと思うユーザーがいて、そのニーズに気がついた作り手がいて、そしておっぱいの大きな女性が出演しようという状況が整って、初めて巨乳作品は世に出る。

 アダルトメディアに登場する大きなおっぱいは、常に時代の影響を受け、時代を反映しているのである。

 

 例えば江戸時代、「浮世絵や春画においては、男女の区別は誇張されて描かれる生殖器以外は、髪型や服装、装飾具などによって行われている。衣服を身に着けて初めて、女性の肉体は男性にとって興奮の対象となるわけだ」。橋本治の指摘が引かれる。「乳首に色を載せるということは、『ここになにかある』ということを教えてしまうことです。でも、女性器の内部に彩色することを当たり前にした日本の浮世絵師達は、乳首や乳輪に着色をしないのです。ということは、『そこには特別ななにかはない』と、近代以前の日本人の多くは思っていたということになるはずです」。

 開国後に日本を訪れた西洋人は、混浴に恥じらう様子を見せない銭湯の光景に驚愕する。視線の侵犯を通じて裸をヌードへと変換する、彼らにとって自明のそのマナーを日本人は知らずにいられた。欧化政策の歪みはやがて黒田清輝の「裸体婦人像」をめぐる「腰巻事件」へと結実する。「絵画には布が巻かれ、描かれた裸婦の腰から下は隠された」、言い換えれば「猥褻として隠されたのは下半身であった。ということは裸の上半身、すなわち乳房は猥褻ではないと判断されたわけである。……それは猥褻とそうでないものの境界線を、局部のシンボルである陰毛そのものに求めていた1980年代までの基準にも見て取れるし、21世紀を迎えた現在でもその境界線は局部の露出度にある。/ペニスと膣という生殖器のみを重視し、第二次性徴にあまり性的興奮を求めないという江戸時代以前のエロス観は、長く日本人を縛りつけているのだ」。

 引き写しには違いないが、このあたりを切り取れば、見事な文化人類学的考察を構成している。

 俗を煮しめたようなこの手のテーマにおいて褒めことばになるのかどうかは知らないけれど、『巨乳の誕生』、意外なほどきちんとしている。

 

 ただしこれ以後、ポップ論にいかにも陥りがちな傾向として、資料が充実すればするほどにかえって固有名詞の羅列に終始する羽目になる。ショート・トピックも総じてトリビアの域を出ない。この点について筆者があとがきで触れている。

 本書では、あえて「巨乳が好きな人は、なぜ巨乳に惹かれるのか」の理由の分析には触れないようにした。……なぜならば、「巨乳が好きな人」と一口に言っても、大きくて形のいい乳房が好きな人、少し垂れているくらい質感がある大きな乳房が好きな人……などその嗜好は様々なのだ。……となれば、なぜその「巨乳」が好きなのかという理由自体も様々なはずだ。

  残念ながら、まるで理由になっていない。フェティシズムの着眼点は多々あれど、そもそも「巨乳」がその対象化されるに至る道筋についての物語を展開することはできたはずだ。「巨乳」が各々がどう見られているか、なんてことは確かにどうでもいい。ただし、かつて色すら持たなかった部位が、ビキニやそれどころか衣服に覆われた状態ですら、欲情の視線を獲得するまでの、そのメカニズムに迫らずして『巨乳の誕生』を掲げるのは、いかにも片手落ちの観が否めない。

 

 シルヴァーナ・マンガーノ、川口初子、青山ミチ……本書片手に幾度、検索をかけたことだろう。そうして気づく、現代の「巨乳」改め虚乳にあまりに飼い慣らされていることに。

 ウエス58の神話よろしく、バスト84Dカップが「巨乳」のアイコンたりえた時代があった。誰がどう考えても懐古調で語るしかない。見られることで成立する点においては、AVもファッションも何ら変わるところはない。画像修正や整形手術にもはや麻痺した時代をはるか先取りして、性産業のヴィジュアル・シーンは過剰に次ぐ過剰のインフレ街道を驀進する。微乳、美少女、素人といったジャンルとて、つまりは「巨乳」なるセンターへのアンチテーゼとして消費されることでその地位を確立する。

 どこまでも行く、そこにウォンツがある限り。このえげつなさに起業家精神、フロンティア・スピリットをどうして見ずにいられようか。欲望の資本主義の最前線はいつだってエロにある。