人間不平等起源論

 

 

 有閑階級という制度がその最高の発展を遂げているのは、たとえば封建時代のヨーロッパや封建時代の日本のように、野蛮時代の文化が高度化した段階においてのことである。このような共同社会では階級間の区別がきわめて厳密に守られており、この階級的区分のなかで最も重要な経済的意味をもつものは、それぞれの階級に固有な職業の間で保たれる区別である。上流階級は、慣習によって産業的な職業から免除されたり排除されたりしており、ある程度の名誉をともなう一定の職業が約束されている。……このような上流階級の非産業的な職業は、大雑把にまとめれば、統治、戦闘、宗教的職務およびスポーツである。

 

「平和愛好的な生活習慣から一貫性をもつ好戦的な生活習慣」へ、さらには「産業の将帥」による「半略奪的な詐術行為」への移行として語られる事象において、ヴェブレンが何を想定しているのか、は率直に言ってよく分からない。それは果たしてJ-J.ルソー『人間不平等起源論』におけるような、否定すべき現実の鏡像としての仮想の楽園を指すのか、はたまたG.ヘーゲルを前提に、およそ理性のたどる必然的なプロセスとして描き出されているのか、あるいは当時の人類学における最大公約数を反映するに過ぎないのか、いずれにせよ「典拠や証拠を明示するという慣行」が守られていない以上、参照すべき文脈をそもそも本書が欠いていることには違いがない。従って、表象的にしか読まれ得ないテキストであることが筆者自身によって宿命づけられている以上、読者もまたそれに応じて、文明批評論としてひたすらその字面を追うより他ない。

 

 筆者の議論は概ね最終章、知性の行く末のとしての高等教育、大学論に凝縮される。「教育は、ある意味で聖職に従事する代行的な有閑階級の副産物であることをもって始まったことになり、それゆえ高等教育は結果的に、少なくともごく最近まで、ある意味で聖職者階級の副産物ないし副業であり続けてきた」。リベラル・アーツにその痕跡を濃密に残しつつも、「現代的な産業生活の必要性」が性質を根本的に書き換える。つまりは「教養科目……を、さらに都市市民の効率性や産業的な効率性に貢献するような、挙証可能な学問分野でもって部分的に置き換える、ということである」。そこにおいては何もかもが効率性、言い換えれば、競争的な利益の略奪に向けて仕向けられる。教養のありかといえば、いかにも高尚な言い回しを典型に、有閑階級を有閑階級たらしめるコードの提供という、これもまた角度を変えれば効率性へと帰属することを余儀なくされる。いずれにせよ、そこには決して「学習者自身の生の展開、つまり学習者自身の知的な関心にもとづく習得を表すような知識」の居場所など認められない。

「理想的な金銭的人間は、遠慮会釈なく人や物を彼自身のために横領してしまう点で、したがってまた、他人の感情や願望および彼の行為がもたらす間接的な影響を無神経にも無視するという点で、理想的な無頼漢に似ている」。両者を隔てるものと言えば、富の有無とそれを顕示するための消費コードへの精通の他には何もない。美術だろうが、衣服だろうが、音楽だろうが、文化史とはすなわち、階級の差異を担保するためのコードの歴史に他ならない。

 J.M.ケインズの名高き美人投票のひそみが有閑階級の理論を遺漏なく示す。欲しい理由はただ一つ、みんなが欲しがるから。なまじ詰め込むべき内容を持たないからこそ、バブルの膨張は止めどなく続く。

10ドルから20ドル程度の商業的価値をもつ手作りの銀製スプーンは、……その価値が10から20セントでしかないアルミニウム製の『卑』金属製の機械作りのスプーンに比べて有用性が高い、とさえ言うことができまい」。にもかかわらず、消費が階級を作り、階級が消費を作る、ここにおいてスプーンは無二の「有用性」の光を放つ。銀と卑金属の価値の差異は唯一、コードを通じて説明される。手作りと機械作りの差異とてまた同様。この世に生のある限り、日々の営為はすべからくこのコードのオートポイエーシスを追認し続ける作業へと還元される。いかなる題材をとっても全く同じ話を繰り返すしかない。なるほど確かに、宗教画に典型的に現れるような各種の約束事に彩られた美術のコードは後退したかに見える。しかしそれは単にコードが背景知識への精通からプライスタグへの交代を遂げた結果に過ぎない。例えば命題、その絵は美しい、と、王様は偉い、が等価だった時代があった。そこに「なぜ」の問いを立てた近代が結果的に後押ししたのは、権威のオーラが「金銭的人間」へと移し替えられるその現象に過ぎない。コードはマイナーチェンジと呼べるものさえ経ることなくそのままスライドされた。かくして例えば、既に形骸化久しかった西洋絵画史の転覆を謀った印象派はたちまちにしてアート界にその座席を確保することを許された。同様に、既存のコードを読み換える、マルセル・デュシャンとフォロワーによるコンセプチュアル・アートの実験もたやすくコードへと吸収された。畢竟、見る-見られるの関係性に、経済への翻訳を免れるものなどひとつとしてない。

 他者を媒介する限り、つまりは、そこに経済のある限り、すべては一元的なコードへと、「有用性」へと、「有閑階級の理論」へと組み込まれる。翻ってそこに、すべて消費者が決して持ち得ぬ「自身の生の展開」の彼岸へ至る隘路を見る。ソーシャルであることの拒絶、誰の目にも決して触れることのない存在不詳の閉じたコードを作ること、ひたすらにめまいを誘う顕示的消費コードのループの中で、「生」と仮に呼ばれるその何かの、共約不能な楽園が蜃気楼のように束の間浮き上がる。