まぼろしの紫外線

 

紫外線の社会史――見えざる光が照らす日本 (岩波新書)
 

 

 本書は、やや変則的な歴史書である。歴史書ではあるが、主人公はモノである。しかも、そのモノは目に見えない。さらに、目に見えない〈光〉なのである。そして、この見えざる光が、近現代日本社会の一断面を明らかにしてくれるだろうと筆者は期待しているのである。……

 科学史という学問領域において、かつては〈内的(internal)科学史〉(主に科学理論の変遷をたどる学説史)と〈外的(external)科学史〉(主に科学活動を取り巻く思想や制度に関する研究)が分立していたが、当然のことながら、科学という生き物を理解するためには、比喩的に表現すれば、その〈解剖学〉も〈生態学〉も両方必要となる。よって本書では、科学・技術を生産する側だけでなく、それを消費する側にも焦点を当て、このような理由から、本書では科学・技術の〈生産者〉と〈消費者〉が交わる場として、一般向け雑誌や新聞記事、広告や小説などにかなり重点を置くことになる。ある意味、本書は紫外線に関する〈科学の文化史〉だと理解していただければと思う。そして本書を開いた読者の皆さんは、紫外線が織りなす万華鏡の世界を、筆者とともに覗いてみることになるだろう。

 

 例えばそれは昭和初期、「透明な窓ガラスも紫外線をさえぎる人工的なフィルターであ」ることが確認された。紫外線の有益性がもはや人口に遍く膾炙したこの時代になんと皮肉なことだろう、窓ガラスという「〈近代家屋の象徴〉が、〈近代科学がその効果を明らかにした紫外線〉をさえぎっていた、ということになる」。結果、「紫外線が『健康の元』であるとするならば、そして通常の窓ガラスがその紫外線をさえぎっているのであれば、その論理的な帰結は今の窓ガラスをやめることである、さらには従来のように紙を使った障子の方がいい、という提案も出てくるのである」。

 こうしたトピックのひとつを取り上げただけでも、紫外線というテーマがなぜにこれほど筆者を引きつけたかが容易に分かる。テーゼの相克という以上に、なにせ議論の振り幅が大きい。それも、反証に次ぐ反証の積み重ねをもって漸進する実証主義科学のありように起因するというよりも、明らかに〈消費者〉サイドの市場主義論理によって世紀をまたいで自らを翻弄し続けているがゆえのことだから、話題にも、笑いにも、事欠かない。

 

 健康法、ダイエット、そしてコロナ……新しい生活様式のもとで読まれるだろうこのテキストが伝えるのは、科学リテラシーをめぐって繰り返される、実は何ら新しいところのない誤配の先史。「無知や忘却にも文脈が存在する」。かつての定説がいつしか姿を消していく、それは必ずしも学術的な否定を受けた結果ではない。例えば皮膚ガン等のリスクが強調されることで、紫外線のもたらすビタミンDの合成や殺菌作用はいつしか置き去りにされた。有害/無害、有益/無益、そんな二元論の脊椎反射的断定を求める〈消費者〉は、トレード・オフの但し書きなど読もうとはしない。

 熟慮の有無が、簡潔と短絡を分かつ。

 

「基本再生産数」といった前提も欠いたまま、「8割」という数字だけが独り歩きする。それが社会全体における目標なのか、各人が一様に満たすべきミッションなのか、という情報さえも省かれた。「自粛」の結果、繁華街によっては人通りの8割が途絶えた場所もあるらしい、ただし、その少なからぬ部分は例えば通販の現場などにリスクが転嫁され不可視化されただけのこと。基礎的なデータを採取する能力すらないのだから、いかに「日本モデル」を誇ろうとも、具体的な定義すら持たせようがない。

 いつの時代にも、分かりやすさに飛びついてしまう人々がいて、そういう人々に向けて分かりやすさを差し出す媒介者がいる。〈科学〉という一見厳めしい呪文が、この商取引の安直さを覆い隠す。〈生産者〉のメッセージがどう翻訳されて〈消費者〉に届き、それに対してどう反応するのか、歪みの原因を〈消費者〉に求めて馬鹿だ、と笑うのは簡単だ、そしてその結論が間違っているとも思わない。ただし、そこには少なくとももう一人の馬鹿がいる。〈消費者〉は馬鹿である、という当然の前提すら踏まえないまま、そのメッセージの受信をコントロールする術すら知ろうとしない〈生産者〉が、馬鹿と呼ばれずにいられるいかなる理由があるだろう。リテラシーがないのが悪い、というのは稚拙を極めた駄々でしかない、事実そこにはリテラシーなどないのだから。

 科学コミュニケーション、あるいはより広義にパブリック・リレーションズとして、〈紫外線〉が今なお木鐸たりえてしまうのは、翻してみれば、科学史から何らの教訓も引き出されぬままに今日の世界的ヒステリーを迎えてしまった、その瑕瑾を表すに過ぎない。本書の狂騒曲を通じて帰結されるのは、〈消費者〉の敗北である以上にやはり〈生産者〉の敗北に他ならない。

 そしてほとんどの場合、その失敗の泥は他の誰かが被らされる。