過冷却

 

民衆暴力―一揆・暴動・虐殺の日本近代 (中公新書)
 

 

 凝固点の0度を下回っているはずなのに液体の状態を保ったままのペットボトル内の水が、わずかな衝撃を与えるだけで瞬く間に氷へと変わる、そんな映像を目にしたことがあるだろう。


supercooled water

 過冷却と呼ばれるこの現象、『民衆暴力』の要約としてそう遠からぬところにある。

 

 本書は「民衆」の語を、国家・公権力に対して、「国家を構成する人びと」の意味で広義に用いる。国家による対外戦争に動員されたばかりでなく、民衆自身が主体的に暴力をふるっていた歴史は、現代の日本社会とは結び付かないようにも思える。しかし、本当に無関係なのだろうか。本書では、現在では起こりそうにもない出来事、目を背けたくなる事件を正面から取り上げ、その歴史的な意味を考えてみたい。

 近代国家が樹立されるプロセスで、政府の近代化政策に反対して地租改正反対一揆血税一揆が起きた。立憲政治を求めて始まった自由民権運動のさなかに困民党が蜂起した秩父事件1884年)や、日露戦争講和条約に反対する政治集会をきっかけに暴動が起きた日比谷焼き打ち事件(1905年)、シベリア出兵にともなう米価騰貴をきっかけに全国規模で広がった米騒動1918年)。

 対外的な関係に目を向けると、日清日露戦争を経て、日本は東アジアに領土を広げた。植民地として日本の版図に組み入れられた朝鮮から、多くの人が日本内地に渡ってきた。関東大震災時(1923年)、官憲・軍隊とともに、日本民衆が朝鮮人を虐殺する事件が起きた。……

 今必要なのは、「暴力はいけない」という感覚をいったん脇において、過去に民衆がふるった暴力がいかなるもので、どのように起こってきたのかを直視し、暴力に対する見方・考え方を鍛えることであろう。そのことで、現代の感覚をもう一度見つめ直す機会が得られるはずだ。

 

 本書で取り上げられるいずれの事例も、その「論理」においてはひどく近似性を示す。つまりは、飲む打つ買うやDVに個人レベルでは刹那的なフラストレーションの発散を持ちつつも、マスとして見れば、暴力の独占主体としての国家や「通俗道徳」などの抑圧で概ね保たれていたはずの均衡が、ふとしたきっかけをもって決壊する。

 例えば1923年の虐殺、しばしば説明として見られるのは、震災直後のパニックの中で、朝鮮人が火を放っているだの、井戸に毒を投げ入れただののデマに惑わされた民衆がヒステリックな暴挙に出た、といったもの。しかしこれだけでは「天下晴れての人殺し」と胸を張る彼らの「論理」として片手落ちと言わざるを得ない。そもそもにあった植民地への差別意識や職を奪われているという被害者意識、自衛という正義の行使が地域、延いては国家への献身へとつながるという自負、あるいは報復を恐れての虐殺の連鎖といった「論理」を重層的に拾えてはいないし、ましてや、見下す対象としての被差別部落を襲った彼らが同時に、仰ぎ見る対象としての警察に火を放ったという一見相反する行動についての折り合いを与えることもできない。

 

 ここ数年、10月の末になると渋谷の街で奇祭が催されるらしい。普段はせせこましい暮らしを余儀なくされている小市民が、この日、この場に限っては、暴力の解放を事実上許されるという、「ハレとケ」の民俗史を忠実に蘇らせたあの儀式、ハロウィンの名のみを借りて独自のガラパゴス適応を遂げたあの儀式、歴史の相から見れば、ええじゃないかと同じカテゴリーであるいは後世に紹介されるかもしれないあの儀式。

「彼ら一人ひとりにはマグマのようなエネルギーがある。しかしそれを集団にまとめ上げる勢力がない。一揆や暴動を起こすような彼らのエネルギーは、敵の見えぬまま、山腹や海底に沈んでいる」。

 ジャパン・アズ・ナンバーワンなど遠い昔、バブル崩壊以後の経済的ひとり負けは止まらない。子どもの精神的幸福度は今や世界の底辺をつく。コロナの「自粛」は明日とも知れず引き延ばされる。機は熟した。最後の仕上げに必要なのは、ばらばらに切り離された彼らを民衆として凝固させる、ほんの少しのシェイクだけ。