はりぼて

 

 

 保守主義とは、それ自体として一個の一貫した理論的体系であるというよりは、フランス革命社会主義革命、あるいは福祉国家による大きな政府など、その時々ごとに対抗すべき相手との関係で、自らの議論を組み立ててきた、いわば相対的な立場である。その限りでは、保守主義を理解するにあたって、ライバル関係を中心に歴史的な再検討が不可欠である。

 第1章で「フランス革命と闘う」バークの古典的な保守主義を再検討する。

 第2章では、「社会主義と闘う」20世紀の保守主義を取り上げる。

 第3章では、福祉国家の行き詰まりとともに現れた、「大きな政府と闘う」保守主義に目を向ける。

 そして、第4章では日本の保守主義を考えてみたい。はたして日本に、真に「保守主義」と呼ぶべき伝統が存在したかどうかを含め、現代日本保守主義を論じることの意義を根本的に問い直すことが本書の最大の課題である。

 終章では、21世紀の保守主義を展望するつもりである。

 

 現代においては専ら保守主義の源流と目される――もっともまだその「時代にこの言葉は存在しない」のだけれども――エドムンド・バークが、当時においてはむしろ「自由の闘士」として高名を得ていたことはあまり知られていない。ゆえに、彼が『フランス革命省察』において徹底的な批判の態度を取ったことは、同時代人の驚愕を誘うところとなった。彼に言わせれば、歴史の紡ぎ上げた連続性を断絶させ一足飛びに「人権という抽象的な哲学的原理」を目指す試みなど、砂上の楼閣のごときもの、「もちろん、バークは人権という理念自体を否定するわけではない。ただ、それが歴史的に形成され、もはや人々の第二の『自然』ともなった社会のなかで機能することを求めたのである」。変える、ではなく、変わる、変わった社会を追認すべく遅々たる牛歩をもって変える、それこそがバーグにとっての「保守する」営為に他ならない。そんな「バークの考えるところ、国家とは、いま生きているものだけによって構成されるわけではない。……現役世代が勝手に過去から継承したものを否定したり、逆に将来世代を無視した行為をしたりしてはならないのである」。

 

 保守革命の母、マーガレット・サッチャーがとある会合の席上、フリードリヒ・ハイエク『自由の条件』を高くかざし、われらが信ずべき新たなる聖典と讃えた逸話は広く知られるところ、しかしこの経済学者の「政治的主張の中心は、憲法によって政府による恣意的な立法を抑制しようとする立憲主義にあった」。

 

 マイケル・オークショットは、人間を他の動物から隔てる差異を、「真理を発見したり、より良い世界を考察したりすることではな」く、「会話に参加する能力」の中に見出す。「会話で大切なのは、複数の話し言葉が行き交うことである。多くの異なる言葉が出会い、互いを認め合い、そして同化することを求めないのが会話の本質である。一つの『声』が他を圧倒してしまうのは、会話ではない」。

 

 上記引用のいちいちがおそらくはある種の人々の癇に障るそのさまが透けて見える。

 今日の宇野重規が立たされた状況を踏まえた上であえて本書を手に取る。明快な筆致で綴られたその記述のことごとくが何かしらの他意をはらんで響かずにはいない。

 もちろん、読者たる人間は誰しもが、コンテクストに従属する存在でしかあれない、いみじくも「人間精神はすべてのものをつねにゼロから眺めることはできない」。しかしそれ以上に、本書が今日の状況への応答を内包せずにいられない理由は、もはや「進歩」なる前提を喪失した「保守」が「再帰的近代」を堂々巡りするより他に道を持たない、という議論を皮肉にも自己言及し続ける構造を取っているからに他ならない。変わらない、変われない世界の中で、退屈なまでに、いつか来た道をループする。上を目指すことをやめた人々にできることと言えば、外聞さえもかなぐり捨てて、自らが見下した何かをひたすらに糾弾しマウントを取ったつもりになることくらいしかない。かくして世界は「保守」されるどころか、縮小再生産の回路にはまる。本書は何を予知していたわけでもない、古典に寄せてそもそもが同じでしかあれない世界を描き出しているに過ぎないのだから。

 有限個のスクリプト動作にせいぜいが固有名詞――固有という幻想がそもそも失われていることが前提の――を代入し続けるだけの単純作業としての世界、奇しくもハイエクがその「自生的秩序」の顕現を価格のメカニズムに見たのはまことに慧眼、どう考えても、計算可能な世界に市場の他に見るべきものなど何一つない。

 総合的、俯瞰的に、己が存在を相対化する自己参照能力のこの一点をもって「教養」はその定義をなす。