listen to the scientists

 

 

 CDC(疾病予防センター)のそもそものはじまりは1942年、「米国南部の地域でのマラリア防御を唯一の目的」として発足したその機関が、今や公衆衛生とはあまり関わりのなさそうな「『労働現場ライフスタイル計画』のスポンサーとなったり、それとは別に『職場における殺人防止』推進計画を実行したりもしている」。ゆえなきことではない、「感染症に罹っている患者は、別の患者からうつされたか、人間以外の感染源からうつったのかのいずれかである。いずれの場合でも、感染源を見つけるためになすべきことは、感染経路を逆に辿って発生源を突き止めることである。これはまさに字義どおりの捜査活動だ」。エピセンター、クラスターを割り出して絞り込んでいく疫学調査の有効性が、CDCをモンスター機構にまで押し上げた。

 このアプローチの効果は、以下の数字をもって如実に示される。

1900年の合衆国における三大死亡要因は、結核、肺炎、下痢性腸炎で、いずれも感染症だった。それが1992年には、三大死亡要因は心臓病、癌、脳卒中となり、感染症は姿を消した。その時点での、エイズも含む感染症による死亡者数は、全体のわずか5パーセントに過ぎなかった」。

 「自然界の病原体は、敵国の平均的な工作員よりもはるかに狡猾で人目に付かず、謎めいている……そう、この『謎』という要素こそが、こういう仕事を魅力的にしている基本要素なのだ」。1995年の彼らが魅せられた「謎」、エボラ・ウイルスを中心に、本書はCDCの来歴を追う。

 

 見えざる恐怖に震える人々の不安とは対照的に、「アフリカ産の三種類の出血熱ウイルス[エボラ、マールブルグ、ラッサ熱]は、人類根絶に邁進する全能の殺し屋などではない……実像は生命を宿さない化学物質である。物理的な実体であり、分子のレベルでは奸計に長け、遺伝暗号が命ずる奇策ならば何でもこなしはするものの、それでも化学と物理学の通常の法則に従うしかない粒子状の物質なのだ。増殖し続けるためには、感染相手にひどい害を与える前に別の人に乗り換えなければならず、そのあいだに簡単な物理的障壁を設ければその乗り換えを妨げることができる」。あくまでこれらは「貧困と劣悪な医療施設がもたらす病気」にすぎない。

 

 ただし、本書は単なる知識とインフラの勝利をめぐるテキストでは終わらない。

 所詮、一般的な診療において相手しなければならないのは、「自分の体を大切にしない患者、肺炎に罹るのは4回目だというのにタバコを止めようとしない喫煙家、食事の量を減らそうとしない肥満タイプの巨漢、運動をしない連中」……。なんという虚しさ、「医師が公衆衛生に引き寄せられるのは、概して、型どおりの一対一の診療を退屈と思うか無意味と思うか、もしくはその両方のせいである。……公衆衛生の対象は『群れの健康』であり、個人の健康ではなく集団の健康に的を絞る。目的とするのは、予防、免疫法であり、“集団”全体を健康にすることである」。

 選ばれし精鋭がエボラの発生源を探索すべく、コンゴ民主共和国はキクウィトの「ウイルス爆心地」を訪ねる。伝染の始点と目されるこの地で彼らはまず何をしたか、「一行は代わる代わるガスパール・メンガの史跡、不滅の炭焼き場に立って写真を撮りあった」、聖地巡礼に胸高鳴るオタクのミーティングさながらに。人命がかかっているのに何をやっている、と不謹慎を謗る輩もいるだろう。仕方がないのだ、「謎」解きが楽しくて仕方ないのだから、少なくとも、ストイックな職業倫理を示したところで、その誠意に応えようともしない患者という名のクズどもと向き合うよりはずっと。

 いつ見ても喜悦の欠片もない、追い詰められたような表情で報道陣の前に立っていることでおなじみの、さる医師は先頃断言した。「PCR検査を増やした結果、感染を抑えられたという証拠がない」、「無症状者にPCR検査をしても感染は抑えられない」、もっともサンプル数すら満足に調達できないこの国の彼に、一連の論理を裏付けるマザー・データの持ち合わせはひとつとしてない。

 疫学的な基本に背き続けるかくなる曲学阿世の徒と、「謎」に憑かれた嗜癖症者、いずれに己が命を預けたいと思うだろう。