ジャイアント・キリング

 

 勤勉で、おおいなる才能を持つ芸術家たちがいた。彼らはジョットとその後継者たちのまばゆい光を浴びながら、幸運の星、そして均衡のとれた気性とともに授けられた豊かな才能を、世に示すべく精進を重ねていた。万物に宿る偉大なる自然を模倣することで、至上の知識を手に入れようと奮闘していたのだ。そのいっぽうで天の支配者たる偉大なる神は、地上にそのような芸術家たちの空虚で実りのない努力が空回りする様子、光と闇を隔てる距離よりも真実から遠ざかってしまった人間たちが、身の程知らずな考えを持つのを天から眺めていた。そして彼らの過ちを正すべく、意を決してひとりの天才を送り込む。

 

 ――と、書き出しからしてこのフル・ボリューム感、現代の長文叙述においてはまずお目にかかれないだろう。いずれのページをめくっても、ひたすらに絢爛豪華な形容表現、この過剰性が本書全編を貫く。

 16世紀に書かれた伝記を今日あえて手に取ることの意味を考える。もちろん直接当事者による証言をさらう価値もあるだろう、現存しない作品についての糸口を拾うこともできるだろう、しかし、それらは本来において高度な文脈クリティークを要するに違いない、研究者向けのアプローチでしかない。

 だとすれば、と私のごとき門外漢にとっての値打ちを考えると、必然まさにこのハイ・カロリーな文体にこそ行き着く。確かにこのテキストはジョルジョ・ヴァザーリという弟子によって書かれた、ミケランジェロ・ブオナローティの筆によるものではない。しかし、このテキストが広く受け入れられ今日へと引き継がれたからには、人々がミケランジェロに読み解いただろう同時代の美意識が相応に反映されているには違いない、言い換えれば、ミケランジェロが体現せんとした美意識のいくばくかが本書に含まれずにはいない。

 事実、かのダビデ像が湛えるだろう、映えに映えまくる荘厳のたたずまい、あたかもゴリアテを模したかのような。もちろん、ここでもミケランジェロが当時における荘厳を表現したのか、作品をもって荘厳が再定義されたのか、という議論の余地はあるだろう。しかし、いずれにせよ確かなことは、「この彫像は……古代の作品をも超えた栄冠を手にしている。……脚はみごとにひねられ、引き締まった脇腹は神が作り出したかのようで、その優美な立ち姿にはなにものもかなわない。これほど美しい脚、手、そして頭部が作り出されたことがあっただろうか。一目この像を見れば、ほかのいかなる芸術家が手がけたどんな彫像も作品も、見たいと思わなくなるだろう」という評から滴り落ちるこの過剰性が、同時代あるいはそれ以後の見る者、読む者の納得を呼び起こすことができた、というその事態に他ならない。

 

 いかに神から遣わされた天才といえども、地上の子、歴史の子でしかあれない。

 時代精神への応答をもって、天才は唯一その定義を持つ。