世界に一つだけの花

 

リクルートスーツの社会史

リクルートスーツの社会史

  • 作者:田中里尚
  • 発売日: 2019/09/26
  • メディア: 単行本
 

 

 リクルートスーツは無個性、従順の象徴とされ、否定され、ときに笑われ、嫌がられる。就職活動生だけがぼやくのではない。こうした批判は採用する側からも漏れ出てくる。ならば、リクルートスーツを着用することなどやめてしまえばいいのではないだろうか。誰もが嫌がっているのに、誰もやめないという膠着状態の中で、リクルートスーツだけが孤独に粛々と役割を果たしている。

 本書は、こうしたリクルートスーツの歴史を描こうとするものである。リクルートスーツはいつできたのか。リクルートスーツはいかに変化してきたのか。そして、リクルートスーツとは何なのか。この問いを探りながら、無聊をかこつリクルートスーツの生が映し出すものに迫ってみたい。

 

 早々にやられる。

『絶対内定』シリーズからの引用。

「この本が推奨する色は『ネイビーか黒』のスーツである。……そして『最低5着は必ず試着』して、サイズをぴったり合わせることが重要と述べる。/サイズについては、袖、裾、肩、ウエスト、首周りの5点をチェック項目として挙げ、それぞれが長すぎたり、短すぎたり、大きすぎたり、小さすぎたりしないように合わせるように指示がなされている」。

 サイズに気を配ろうなんてどんな服を選ぶ際だろうと言われるまでもないことだろうに、ここまでの手取り足取りの指南を受ける。読む側をひたすら気恥ずかしくさせるこの感覚が以後のテキストを支配してどうにも離れない。

 筆者は、近年このようなガイダンスを要するに至った大きな理由として、「超常識」、つまり言うまでもないことすら抜け落ちてしまっている昨今の事情に触れているが、私はそれ以上に大きな原因が横たわっているように思えてならない。

 つまりは、男女問わずほとんどすべての就活生が中高でまとっただろう学校制服の存在である。かつては大学においても着られていた学生服を脱ぎ捨てて、社会への一歩として背広に着替える、1960年代に起きたこの変化を筆者が当然に見落とさないはずはない。しかしそれ以上に、花森安治の「どぶねずみ」論があまりに芯を食いすぎていた。

 

このごろの連中は、どういうものか、学校にいるときは、一向に制服を着たがらないでもって、ひとたび世の中に出たとなると、とたんに、うれしがって、われもわれもと制服を着る、という段取りになっているようだ

 

 対義語としての、そして同義語としての制服、景気動向やファッション・トレンドに基づく二転三転こそあれ、本書を通じてこの喝破を超えるものはおそらくない。なぜ学生があえての「画一性」に手を延ばすのか、の答えの一端がここにある。カラーコーディネイトもサイジングも素材感も知らない、知らされない彼らが着せられるものとしての制服、そしてリクルートスーツ、そもそもにおいて量産品を宿命づけられているのだから。

 

 そして彼らが「画一的」たらざるを得ない理由がもうひとつある。つまり、それは身近な人間であれ、街角で出くわす誰かであれ、彼らに見本を示せるようなスーツ・スタイル、筆者の言葉を用いれば「地位表示機能」が現実には決して転がっていないからに他ならない。残酷な事実、誰がトム・フォードをまとおうと所詮人間、コナカを着たマネキンにすら勝てない。もしかしたら雑誌やクレジットカードの明細には現れるかもしれない、ただしリアルの衣服においては決してお目にかかれることのないミラージュとしての「地位表示機能」が予め剥ぎ取られているのだから、リクルートという冠をあえてつけるまでもなく、今日のスーツにはそもそも日用品性、記号性しか残らない。

 そしてその工業製品はもれなく市場最適化の洗礼を受けずにはいない。「悩む就職活動生に対し、専門家は過去の経験からアドバイスし、就職活動生はそれを信用する。専門家の判断を仰ぎ、目立つリスクを回避し、労力とコストを極力減じ、合格に至るケースが増える。さらに、合格体験という言論が再生産される。紺スーツでの合格が必然化し、確実性が高まったように感じる。それらは活字メディアに掲載され、権威が付加される。その活字メディアを、再度専門家が読み、自分の判断の確かさに自信を持つ。こうした言説の循環的信憑強化によって、紺色神話が形成されたのではないだろうか」。普通に考えれば、二つボタンなら合格、三つなら落選なんてことは起きない、紺だろうがグレーだろうが好きな服を着ればいい、にもかかわらず都市伝説のごとく「信憑」が肥大を重ね、マーケティングの利益最適化が既成事実を再生産していく。就活生という商品が市場によって規格化され、選好されていくメカニズムがかくも鮮やかに描き出される。すべて消費者にできることは市場原理に駆動されることだけ、マルクスが疎外と呼んだ事態がここに現前する。

「花」として数えられる時点で既に「世界に一つだけの花」は「世界に一つ」のはずがない。バブルが束の間見せてくれたポスト・フォーディズムの黄昏に広がったのは、フォーディズムへの帰着だった。すべて工業製品の宿命としての「画一化」、リクルーターの自意識とは裏腹に、誰も「僕ら」を見ていない、「僕ら」なんてどこにもいない。