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自画像のゆくえ (光文社新書)

自画像のゆくえ (光文社新書)

  • 作者:森村 泰昌
  • 発売日: 2019/10/16
  • メディア: 新書
 

 

 本書では、これから「自画像」について、私なりの考察をしてみたいと思っているのだが、……2000年代にはいって激変をくりかえす「わたしがたり」の様相をまのあたりにすると、この現代において、自画像論などというものがはたして有効なのかという、根本的な疑問にさえぶちあたる。いまや時代の興味は「自画像/セルフポートレイト」ではなく、「自撮り/セルフィー」なのではないのか。

 この問いかけに私は「おっしゃるとおりです」と即答したいと思う。しかしそう答えたあとで、つぎのような問いかえしもわすれないでおこう。「では、お聞きしますが、自撮り/セルフィーってなんですか」、こういう問いかえしである。……

 次章からはじめるのは、多くの先輩諸氏がのこしてくださった文献等におおいにたよりながら、そこに私なりの想像力をつけくわえて試みた、自画像の歴史をめぐる、21世紀人のためのツアーである。

 

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 ここに一枚の素描がある。誰しもが知るところだろう、荘厳みなぎるレオナルド・ダ・ヴィンチの自画像である。しかし、とここで筆者はひとつの問いを立てる。確かに彼は「偉大な芸術家だった。のみならず、天才的な科学者でもあり技術者でもあり、そして思想家でもあった。そのことについては私も異存はない。しかしそのことと、そういう才能あるひとの顔というものが、威厳にみちた風格のある風貌を持つものだと信じてうたがわないということとの関連性は、けっして自明なことではない」。

 ルネサンスの不朽の巨人としての名声が確立されるのは、実のところ、手稿の研究が進んだ19世紀を待たねばならない。その評価の定着に合わせるように、かつての眉目秀麗で鳴らしたそのイメージを塗り替えるように、髭と威厳をたたえた老境のレオナルド・ダ・ヴィンチの自画像が広く人口に膾炙する。

 

 再帰的に確立されるものとしての自画像もしくは自己、この図式をなぞるような議論をフィンセント・ファン・ゴッホに見る。筆者が定義するに、「だれかが“画家になる”とは、そのひとならではの“画風”を確立することである」。何者でもない「だれか」が“画風”を通じて“画家になる”、言い換えれば自己模倣、「わたし」を規定する「わたし」を“画風”として再生産する回路を獲得することで遡及的に「わたし」が産み落とされる。

 

 本書は間もなくインフレーションにさらされる。つまりそれは、真贋をめぐる論争はあれどとりあえずは「自画像というものを描かなかった画家」として広く知られるヨハネス・フェルメールを「自画像」との主題のもとで取り上げることで。筆者が説くに、カメラ・オブスクラを思わせる部屋を覗き見るかのような仕方で人物画を表し続けた光の画家は、そのとき同時に、客体たる女性たちの中に「“隠された自画像”としてのフェルメール自身」を仮託していた。あくまで、と筆者は重ねて強調する。「私は、自分自身の答えを自分なりにさがしてみたにすぎない。答えはスフィンクスと対峙するひとの数だけあるのだろう。鑑賞者それぞれに、それぞれの謎がなげかけられ、だれもがそれぞれの答えを見いだす必要がある」。

 ここに至って、見る者と見られる者が反転する。鏡をもって立ち上げられた、近代自我の結晶としての自画像は、つまるところ、鑑賞者の鏡としての作用への還元を余儀なくされる。

 この論法を用いれば、世に遍くすべての絵画は自画像として再規定されるだろう。少なくとも本書に寄り添う限りは止むを得まい、森村泰昌という「わたし」に表象されるフェルメールが他の現れ方を持たないのだから。

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 絵を描く「わたし」について。絵を見る「わたし」について。

 よりにもよって自画像というテーマを選び取ってしまったことが、本書をややこしくしてしまっている感はどうにも否めない。しかし書き手は森村泰昌、「スフィンクス」を打ち立てる自由が「わたし」にはある、アートワークを通じて繰り返されるその自己言及が本書を支える。

 従ってこうも言い換えられよう、すなわち、本書は森村泰昌の自画像でもある、そして、それを読む「わたし」の自画像でもある、と。

 

 そしてカラヴァッジョ。

 彼もまた、自画像と銘打った作品群を残した画家ではない。しかし、他の手による肖像を見るに、自らの痕跡を数多の宗教画の中に刻みつけていた点についてもはや異論はない。

 その解釈については本書や各種テキストに委ねるとして、ここにとてもシンプルな問題が立ち上がる。つまり、例えば『マタイの殉教』において、暗殺者を差し向けた髭面の男、ヒルタクスにカラヴァッジョが自己投影したとの知識を得た瞬間に失われてしまった何かについて。

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 ここに一枚の絵がある。

 この絵の表題が『ダビデゴリアテ』であることを知る。この絵がカラヴァッジョの筆によることを知る。この絵に描かれた生首の人相が画家に酷似することを知る。この絵の完成から数か月後に画家が絶命したことを知る。

 同じ絵を見ている、ただし、かつて見ていた通りの見え方にはもはや戻れない。同じ絵を見ている「わたし」は、ただし同じ「わたし」ではいられない。

 知恵の実をかじるようなこの経験を本書はひたすら反復する。

 画家という「わたし」における見え方、見せ方、見られ方の問題は、たちまち反転して、鑑賞者という「わたし」における見え方の問題として投げ返される。鏡の前に立つ「わたし」が絶えず変わりゆく「わたし」であるとするならば、その目がとらえている「だれか」は果たして誰なのだろう。

 五感がたとえ「わたし」を欺こうとも、「わたし」自身へと向けられたこの意識の存在それ自体については疑いの余地を持たない、デカルト近代によって花開いた「自画像」はやはり宿命的にこのことばへと帰着する。

 われ思う、ゆえにわれあり。

 そして同時に見るだろう、表象へと耐え難くひもづけられた「わたし」を。