神のみぞ知る

 

 オカルト番組は、ときに批判・非難(バッシング)されながらも、支持(視聴率)を獲得し、概して社会的に許容(放送)されてきたといえる。本書が試みるのは、オカルト番組をめぐってマスメディアに表出した言説を捉え、その変遷をたどる作業である。オカルト番組の内容(出し物となる〈オカルト〉ではなく、オカルト番組をめぐるメディア言説に注目するのは、公共性が高いテレビという包装メディアに長年にわたってオカルト番組が存在し続けた事由にこそ、本書の問題関心があるからである。

 

 このテキストには、読者ならば予め誰しもが意識せずにはいられないだろうにもかかわらず、かなりの恣意をもってスルーされたオカルトがある。

「それ」が要件を満たさない、という言い逃れの余地があるとはまさか思えない。「それ」の出自はあからさまにニュー・エイジ・サイエンスから来ていた。「それ」が謳った空中浮遊などの神秘体験に高学歴のエリートたちが次々と魅せられていき、電波では著名な芸能人や宗教学者からの大々的なお墨付きが与えられた。間もなくとある事件を契機に、本邦の放送は「それ」にジャックされた。

 つまり、オウム真理教の存在である。

 本書でその名が触れられるのは、私の気づいた限り、たったの二箇所に過ぎない(p.237、 p.247)、それもあくまで引用の都合上という程度の位置づけ。

 坂本堤氏らをはじめ、警告を発する声は数多あったにもかかわらず、ネタとして消費することを通じて拡散機能を果たしてしまったメディアの社会的責任が、本書のテーマと相容れないものとは少なくとも私には理解しがたい。

 

 しかし、にもかかわらず、本書において観察されるオカルト番組の変遷が今日のメディアをめぐるとある予兆を示していた点については、もはや疑いの余地はない。

 例えばゴールラインがずるずると後退し続けるそのさま。そもそもオカルト番組といえば、「『お遊び』『お座興程度』の〈信じられ方〉をする(と思われる)ところに成立した」、つまるところ「〈オカルト〉に追求すべき事実などないという暗黙の了解があったと考えられ」た。ところがそこに皮肉な現象が起こる、なまじ「科学的アプローチ」を掲げることで、逆説的に「番組内の心霊現象・超常現象がホンモノであること」との体裁を前提にしなければ成り立たなくなる。そのプラットフォーム上では、大槻義彦のごとき存在は、もはや真偽をめぐる検証要員ではなく、プロレス的演出のヒール・ロールへと堕する仕方でしか居場所を持てない。そして2000年代に至り、江原啓之のごとき茶番をめぐり、「『必要な人が多くいる限り、あってもよい』『批判するなら、見なければいい』という反応」へとついには解消される。

 この推移、現代における政治報道に名を借りた広報活動と限りなく似る。おかしいものに突っ込みを入れる、社会の木鐸たるその機能は「批判するなら、見なければいい」を前にあっさりとかき消された。収益の構造上、「必要な人が多くいる限り」、つまり視聴率が稼げる限り、スポンサーがつく限り、「あってもよい」との結論は不可避に導出される。かくして両論併記、公平中立という語は今や新聞・テレビ等のメディアによる事実確認の拒絶のみを専ら意味するようになった。

 こうしたありさまをそのままトレースしたようなプログラムがある。『TVタックル』。初期において話題を博したもののひとつが、大槻‐韮澤論争をはじめとしたオカルト。並んで台頭したのが、例えば舛添要一田嶋陽子によるプロレス。やがて番組は、浜田幸一三宅久之を軸とした、毎週毎週がまるで再放送のような名物テレビ・ポリティシャンらによるお約束へと姿を変え、そしてついには議論の体裁すらも放棄して現在へと至る。

 政治化したオカルトと、オカルト化した政治。この変遷が相通じるのは決してこじつけでも偶然でもない。最大多数の求める番組を望むとおりに作れば、同じようなルートをたどる、ただそれだけの話。すべからくして水は低きへ流れる。

 

「塀に穴を開けて、そこに〈覗かないでください〉と書いておく。みんな覗きたがる。テレビってそういうもんですよね」。

 オカルト・ブームの火付け役、矢追純一のことばだという。

 ワイドショーがオウムに乗っ取られて早や四半世紀、そんなテレビが私は見たい。