「私は無力で 言葉を選べずに」

 

 

東京プリズン (河出文庫)

東京プリズン (河出文庫)

  • 作者:赤坂 真理
  • 発売日: 2014/07/08
  • メディア: 文庫
 

 

 十六歳になったその日、ハイスクール十年生であるはずの私に、校長先生から、ある提案があった。

 アメリカに来てから、教育的配慮とやらで九年生へと一級落とされていた私が、元の級に戻れる条件が提示されたのだ。

 日本について全校生徒の前で発表して、それを「アメリカ政府」その他の単位に代えようというのだ。

 

 まず発表のための資料を送ってもらおうと、東京の実家にコレクトコールをかける。電話に出たのは、母ではなく祖母。その祖母が唐突に言った。

「ママはね、東京裁判の通訳をしていたことがあるの」

 折よく帰宅した母にそのことを訊ねる。

 「知らないわ!」

 それは否認ではない。絶対の、拒絶だった。……

 私の家には、何か隠されたことがある。

 

 ごく小さなころから、そう感じてきた。

 特定のことが、どうというわけじゃなかった。

 私の家の大人たちは、何かを呑みこんで、ゆえに過敏で、ときに過剰反応し、忘れるための別の何かに没頭していて、いつも互いに向き合う余裕がなかった。

 悲しみの、震えの、石のように結晶した涙のかたまり、のような何か。……

 それがわからない、ということを呑みこんだ。それが知りたいということを呑みこんだ。……

 アメリカで一年を過ごし、挫折感を抱えて帰国した私もまた、その地であったすべてを呑みこんだままで、今日まで三十年近くの時を生きてきた。

 

 そう、人は、自分が呑みこんだものになるのだ。

 

 そして16歳の「私」に課せられたミッションは東京裁判の再審、保護者らをも巻き込んだ全校公開ディベートの席上で「日本の天皇ヒロヒトには、第二次世界大戦の戦争責任がある」ことを立証しなければならない。

 

「これは真面目だ。ゲームじゃない。

 同時に、ゲームである」。

 模擬法廷という「ゲーム」において必要なのは、与えられたポジションにおいてなし得る限りの主張を論理的に積み上げること、自らの信念を振りかざすことでは決してない、それはちょうど法律家の職務としての論理構成がクライアントの利益に従って決定されるように。それはつまり、およそ世の中における立場なるものが入替可能なものに過ぎないことを理解する経験。

 ところで、「ゲームgame」には本書の展開上、捨て置けない重要な語意がある。すなわち猟の獲物を指して言う。

 アメリカにやって来てまだ日も浅い「私」が、ハンティングに誘われる。参加すると言っても銃を握るわけではなく、ついて回るだけのギャラリー。やがてヘラジカが撃ち抜かれる。ただし、ゲームにはルールがある。仔鹿を仕留めるのは州法違反だった。罪を逃れるべく、死体をばらして各人で持ち帰り埋めて隠すことが即座に決まる。共犯者の「私」に手渡されたのは切り落とされた耳、「これが《責任》の感触なのかと、考えた」。

 戦争をめぐる責めを負う、ほぼ出来レースの「ゲーム」としての法廷に立つ「私」のロールはまさに「ゲーム」、つまり仕組まれるがまま吊り出されて食い物にされるだけの、敗戦国から迷い込んだか弱いカモだった。

 

 堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ――

 そう聞けば、誰しもがただちに玉音放送の一節と知る。英語と突き合わせながら、調べものを進めていた「私」にふと疑問がもたげる。

「主語は、誰?

 英語の最も基本的な問題につきあたった。英語ではこのように主語を省略できない“I”である気もしてきてしまう。……しかしそのIとは誰だろう。朕なのか。

We”にするにしても、それが、私たち天皇家なのか、大本営なのか、日本国民なのか、そこに朕は含まれるか。はたまたPeople(人民)なのか」。

 原文を参照すればむしろ主語は「朕」であることは明らかなのだ。しかし、この文章の面白さは、まさしく「私」がそうしたように、前後もそぎ落とされて一節のみがことさらに記憶されることを通じて、「朕」はいつしか抜け落ちて、その主体が聞き手によって引き受けられるという記憶の書き換えが起きる、という点にある。

 そもそも玉音として流れてくるその声の主が天皇であることをどうして知ることができただろう。今日のデジタルリマスターを経てすらも割れてくぐもった音声が、当時のスピーカーで鮮明に聞き取れたはずもない。ましてやあの古式めかしい言い回しがすんなりと脳裏に文字起こしされたはずもない。1945815日に果たして何が聞こえていたのだろう。にもかかわらず、中立国を通じてポツダム宣言の受諾が通知された日でもなく、連合国との降伏調印の日でもなく、815日が「終戦記念日」として規定された、玉音放送が流された、というただそれだけの理由で。

 ここで重要なのは、そのとき何を聞いたかではない、流されたという記録が聞いたという記憶として既成事実化した、というその事態に他ならない。その記憶の共有主体をもって日本のpeopleが規定され、かくして815日の神話は成立した、それはちょうどかのゲティスバーグにおける演説でエイブラハム・リンカーンの発した“of the people, by the people, for the people”を通じて南北に引き裂かれていた者たちが、死者をも含めて遡及的にpeopleとして再定義されたように。

「人は自分を支える物語なしに生きてはいけないんだよ。それはつまりは、言葉だ」。

 

「私は天皇の弁護ではなく、ヒロヒト自身の役を自分がしようとしてるのに気がついた。それも、戦争犯罪の被告人として召喚されたヒロヒトの役を。……

 天皇ヒロヒトとして“I”、「私は」、と発語しただけで、奇妙な感覚に襲われた。私がまるでその人であるような。そしてその人は、“I”という英語の体感でとらえがたい。自分が世界の中で唯一無二のものとして際立つのではなく、反対に、自分が透明になってひとつの穴となっていく感覚。圧倒的に無防備で、それが一国の最高責任者だったとは到底信じられないような感覚。……

 朕というのは、器のような感覚がする。器じたいは空なのだ」。

「私」にはるか先んじてこの点を喝破した折口信夫は「魂の容れ物」として天皇(制)を定義した。

 国体における機関、否、もはやこう変換すべきだろう、器官としての天皇、「言葉」を通じて立ち現れるその中心はいつだって「空」、「コンパスの針の先が円の中心なのではありません。中心とは、針が穿つ小さな小さな穴でもありません。円の中心には何もない。そこは真に面積のない場であり虚無なのです。そこは何でもどこでもありません。しかしそこ、『中心の虚無』がなければ円は生まれ出ないのです」。

 ロラン・バルトによる「空虚な中心」論を想起する。この「表徴signeの帝国」にあっては、東京一極集中の都市構造の、その極致たるはずの中心になぜか皇居という森が広がる。

「森はまだ寒い。けれど枯れたような木々の中で命は漲り始めている。森の生命たちは、圧迫感をもたらすほどむせ返るほど濃い。今この瞬間にも生命の交合が行われて古い細胞が死に新しい細胞が生まれようとしている。そしてその背景にある魂魄たちの気配、精霊たちの気配、魂たちの気配。彼らは息を潜めて見ている」。

 古典的な自然信仰、アニミズム表現を呼び起こすだろうこの「森」が、メインの森林でもどこかの山岳でもなく、「空虚な中心」を結ぶことはもはや論を俟たない。1954年作、原爆と英霊の混淆物としての怪獣ゴジラは、東京を襲い国会議事堂に牙をむきつつも、決して皇居の森を焼くことはできない、それは躊躇や尊崇の結果ではない、周辺をさまようことはかなえども、もとより「空」なのだから触れようがない。

 

 奇しくも、世々の「魂の容れ物」へと引き継がれる三種の神器と言えば、剣、玉、そして鏡。

 天皇という“I”をめぐるこの小説は、合わせ鏡のように小説の主人公たる「私」という“I”を語り、やがて読み手という“I”をめぐる鏡として立ち現れる。

 例のゲームで判事役を担う「私」はその途中、はたと醒める。

「人生とは、世界とは、仮面劇のようなものだと。みな、時を超え肉体という器さえ乗り継いで、同じ劇で同じ役を演じるためにこの舞台で出会うのかもしれなかった。……

 I とは、すべてのひとの一人称である。

 私は何者でもなく、何者でもありえ、そのすべてで、同時にありうる」。

 すべて「言」は経験に先立つ、なぜならば「初めに言があった」から。

 むき出しの代名詞性滲むheit、従属的な影としてのyouに比して、ややもすれば特権性を授けられているかに見える一人称というこの地位も、所詮は動詞へと繋がれた入替可能な主語の一形式に過ぎない。主体、にもかかわらずその振る舞いを指し示す動詞が予め規定されている。本書においても度々示唆される、男‐女という対立軸に基づく主‐客の作法とて、「言」によって先行されるという根源的な客体性、被投性を否定するためのいかなる論拠をも持ち得ない。万世一系、男性性の極北が「魂の容れ物」という受動性の極北を体現する、それは皮肉ではなく、必然の帰結に過ぎない。

「初めに言があった」、だからこそ、本書の「私」はあるときは16歳の「私」、あるときはその30年後の「私」、あるいは「私」からの電話を受ける「私」のママにだってなれる。ベトナム戦争の犠牲者にもなれれば、新大陸の先住民にも、果てはヒロヒトにも、ヘラジカにもなれる。「言」があるから、誰にでもなれる、つまり、誰かにしかなれない。“I”にできることといえば、有限個のスクリプト動作でしかないことを知り尽くしつつもあえてその単調な処理機能を引き受けること、そしてその欠缺に際して身をもって血をもって死をもって「責任」を贖うことの他に何もない。誰に対してでもなく、ただ「言」に対して「責任」を負う、「言」が「責任」なる語を含むその限りにおいて。実存とやらに参照すべきものなど何もない、なぜならば、そんなものはないから。「初めに言があった」、身体も名前もそこにない、ゆえに鏡は何も映さない。

人は、役割を演じるか否かによらず、すでに世界に遍在する言葉を媒介できるにすぎないのではないだろうか。そして〈私〉の本体とは、行為する私ではなくそれを見る透明な意識のほうなのでは。