ブレーメンの音楽隊

 

ブルースだってただの唄 (ちくま文庫)

ブルースだってただの唄 (ちくま文庫)

  • 作者:藤本 和子
  • 発売日: 2020/11/12
  • メディア: 文庫
 

 

 女たちは体験を語るにふさわしいことばを求めつつ、こころをひらく。できあいのことばでは語りえぬことの多いことを知りつつ、こころをひらく。女たちがみずからの体験を言語化しようとするとき、それを可能にしてくれる言語がない、それを「さわやかな欠如」という表現でいったのは、ずいぶん前の森崎和江さんだったが、そのことばはいまだに説得力をもっている。「さわやかな欠如」から出発すればいい!

 出会った黒人の女性の多くが、やはりことばを探し求めつつ、語っているようだった。けれども、手探りつつ語る彼女らの背後に、アフリカ系アメリカ人固有の精神世界の遺産をうかがうこともできるのだった。それは世界の女たちの「さわやかな欠如」の中身が普遍的なものではないことを示している。そしてそのことこそ、わたしたちには重要だ。普遍性のなかにやすらぎを見出すよりも、他者の固有性と異質性のなかに、わたしたちを撃ち、刺しつらぬくものを見ること。そこから力をくみとることだ、私自身を名づけ、探しだすというのなら。

 

 あるミーティングを締めるにあたって、女は言った。

「ブルースなんてただの唄。かわいそうなあたし、みじめなあたし。いつまで、そう歌っていたら、気がすむ? こんな目にあわされたあたし、おいてきぼりのあたし。ちがう。わたしたちはわたしたち自身のもので、ちがう唄だってうたえる。ちがう唄うたって、よみがえる」。

 本書のヒアリングに応じた女性の属性は、職種、出身地、経歴、家族構成……とそれぞれに異なる。あえて共通項があるとすれば、「黒人であることと、黒人であることについて熾烈な意識をもっていること。絶望もしないが、幻想によりかかることもしない」。にもかかわらず、その接点に吸い寄せられて集った彼女たちは、各々がその来た道を語ることを通じて、それをいつしか「わたしたち」へと書き換えて、「ちがう唄」を歌いはじめる。それは決してブルースの中の、ステレオタイプ的に消費可能な「あたし」に似ない。

 テキストの形式は一見、ただの独白調、筆者は時折ごく短い問いをさしはさむだけ。それはあたかもひとりごとを記録するだけのレコーダーか、さもなくば壁のようですらある。しかし、聞き手を持つことが「わたし」と「わたしたち」を限りなく隔てる、そのことを読む者に否応なしに知らしめる瞬間が訪れる。いかにも異色な特別収録、「十三のとき、帽子だけ持って家を出たMの話」。

 終始、「わたし」という主語をもって書き進められる小説調のこの回顧録は、聞き手であるKなる女性の登場を契機に立ち上がる。ハウス・クリーニングの顧客の義娘で日本人、「まあ賑やかな人で、何を仕事にしてるのか、何度きいてみてもよくわからないが、……ときどき『本を書いてるところだ』なんていう」、そんなK。そんな彼女に乞われて「わたし」は履歴を語り出す。

 言うまでもない、「わたし」こそが語り手「帽子だけ持って家を出たM」、そして「K」は聞き手にして書き手たる筆者。主客のねじれたこの倒錯構造をあえて差し出すことこそが、筆者による「わたしたち」のマニフェストに他ならない。

 なるほど確かに筆者には、「着るものといえば、穀物をいれる袋の生地で作った木綿のワンピース一枚きり」だった過去もなければ、立て続けに「弟が頭を拳銃で撃たれた」り「妹の息子が自殺」したりの「絶え間なく、人が傷つけられたり、殺されたりする」渦中に置かれたこともないだろう。ベビー・シッターとして託された白人の乳児とバスに乗れば、運転手に「赤ん坊は前のほうに坐らせろ、おまえは後ろの席に坐れ!」と怒鳴られる、そんな経験だって間違いなくしていない。それでもなお、紛れもなく、筆者は「わたしたち」を構成する。虚空に向けてのつぶやきと聞き手を持つことの決定的な違いがここにある。たとえ発話の内容において相違を持たずとも、ことばを託す誰かを持つ、そしてそれを引き受ける、そこに「わたしたち」が生まれる、「ちがう唄」が成就する。

 それは越権でも思い込みでもない、ことばなるメディアの正当な作用をいうに過ぎない。

 それは、本が書かれる、本が読まれる、というその営みにおいても限りなく同じ。

 

 麻薬と小切手偽造で前科二犯、ブレンダに話を聞く。

 釈放を控える彼女は自らに訪れた変化を明かす。

「悪口雑言。下卑た口をきく女は大嫌いなのよ。ぞっとするの」。

 それは鏡写しの自己嫌悪の表明に他ならない。なぜその忌むべきことばを使っていたのか、と問われて答える。

「まわりの者たちが皆そうしていたから。自分でもいやだったんだろうけど、そういうことばづかいは裏街道生活の一端なのだから」。

 ことばを通じて巻き込まれ、自らを最も軽蔑すべき地位へと貶めた果て、「あたしは自分のこと、全然好きじゃなかった、これっぽっちも。子どものころ、まわりの者たちにいつも……、あたしは自尊心がほとんどなかった……。自分が他の人たちと違うということで……何もかもだめなんだと思っていた。あたしについて聞くことばといえば、すべて否定的なことばばかりだったもの」。

 そんな彼女がいつしか変わる。刑務所内で本を読み、辞書に当たり、語彙を増やした。ナルコティクス・アノニマスの集会で「同じ経験を持つ者たちが助け合う」、互いに通じることばを交わした。

 ことばが変わる、ブレンダが変わる。 

 

「おまえらはあるとき、かくも偉大であった、と語る者を持てれば、過去を眺望し、未来へのヴィジョンを持つこともできる。でもそれがなければ、生はすべて〈いま〉と〈ここ〉といく視角からしか眺められない。そしてその〈いま〉も〈ここ〉も惨めなだけのものなら、人間はあきらめるよりほかないでしょう」。

 ひたすらにみすぼらしい〈いま〉〈ここ〉に参照に値するものなど何一つとしてない、これまでもない、これからもない。ただし世界には、そんなリアルの横紙を瞬間「撃ち、刺しつらぬく」ことば、現実から解き放つ「ちがう唄」がある。