ピープルvsウォルト・ディズニー

 

 

 90年代後半以降、とりわけ21世紀に入ってからのTDLに対してずっと感じている違和感がある。それを一言で表現すれば……

「最近のディズニーランド、ちょっとヘン?」

 となる。(中略)

「ヘン」と感じる最も顕著な点は、TDL東京ディズニーシー(中略)が、生みの親であるウォルト・ディズニーの理念からどんどん離れていってしまっていることだ(中略)。ウォルトの理念は「テーマパーク」と「ファミリー・エンターテインメント」に集約されるのだが、このウォルトが考えていたイメージが東京ディズニーリゾート(中略)からは消えつつある。そこはいまやテーマパークというより、何でもありのごちゃまぜの空間になっていて、ファミリーというよりDヲタと呼ばれるディズニー・オタク、子ども、そして若者のほうが目立っているのである。これは、家族連れが圧倒的な比率を占めるアメリカのディズニーランドとは好対照をなしている。

 この現状はいったいどういうわけなのだろうか。そこで、このTDRの変容をメディア論的視点から考えてみようと思い付き、本を書くことにした。

 

「テーマパーク」との言い回しに示される通り、ウォルト御大のクオリティ・コントロールの下、まさにその「テーマ」性によって他の追随を許さぬブランドを構築してきたTDR。ところがそのシーンから、いつしか当の「テーマ」が消えた。例えばパレードにおいてはもはや「音楽や衣装、装置、キャラクター、テーマがどれも重層的に交ざり合う一方で、それらはほんのわずかの共通点しかもっていない」。

 といって、その事象をひとまず「崩壊」と名指す筆者の論調は、必ずしも否定的なものではない。

リテラシーの向上はTDLとゲストの関係性の逆転といった状況を呈するようになる。一言で表現すれば、それは『送り手=TDL』から『受け手=ゲスト』へ、パークのメンテナンスする主導権の交代を意味していた。(中略)/ファンのゲストたちは、インターネット上にあふれる膨大な数のディズニーに関連する情報のなかから、それぞれ任意にディズニー情報をチョイスし、これをカスタマイズして『自分だけのディズニー世界=マイ・ディズニー』を作り上げる。ただし、これはウォルトとTDR側が提供する世界観やテーマ性とはもはや同じものではない」。

「テーマパーク」たるはずのその場所がもはや顧客それぞれが求める「テーマ」を掌握できない、だとすれば、パークが彼らをつなぎとめるためにできることは、各人がどうサンプリングしているのかも分からぬまま、ひたすらに「マイ・ディズニー」向けのデコレーション素材を増産し続けることだけ。

 これだけを見れば、例えばスマホPCにおけるアプリのあり方にも通じる。しかし加えて筆者が本邦固有の文脈として強調するのが、あまた「様式美」に観察されるように、「日本人は世界よりも趣向を重視し、マクロよりもミクロに関心が向かう志向性を備えていた」点である。だとすれば、この一連の「崩壊」は、「ディズニー的世界が日本文化、たとえば歌舞伎や宝塚、AKB48、相撲、プロレス、ジャニーズといった消費文化の文脈のなかに回収されていくプロセスにすぎなかったということになりはしないだろうか」。

 

 メディア社会論としてはとても分かりやすく展開する、ただしどうしようもなく興ざめを誘われるのが、これがTDRを舞台にしたトピックである、という点にある。身も蓋もなく言えば、「ヲタ」と呼称するに値するほどのリテラシーを持った人間が、マスとして動員される行列の中に果たしてどれほどいるのだろう。

 その例証は、筆者自ら引く映画『アナと雪の女王』のレビューに観察される。そこに並ぶのは専ら、「すばらしい」、「これぞディズニープリンセス物語」、「みんな行くから」「家族みんなで楽しめる」といった「お決まりの評価である。いずれにしても、これらのレビューは作品の内容そのものに立ち入った評価とはいいがたい」。この程度の語彙しか持てない、これが『アナ雪』の標準的な視聴者だし、当然に、年間3000万人を集めるTDR(に限らず世に遍くコンテンツ)の主要顧客層である。鑑賞直後に物語のあらすじをまとめさせたところで、どうせ原稿用紙一枚を埋めることすらできず、せいぜいが判で押した通りの賛辞を脊髄反射的に喚き散らすだけ。「いい」と言って、どこがいいのか、なぜいいのか、などという基礎的なポイントを論じるロジックなど能わない。サイレント・マジョリティがサイレントたる理由とは、単に言語化に資する知性、感性を有さぬというその厳然たるファクトゆえに過ぎない。こんな客層の上に成り立つプレハブ空間のバロック化をいくら説いてみたところでそもそもの前提からして底が抜けている。

 既存のテンプレート程度では充足を得られないからこそ、時にオリジナルに抗ってすらもタコツボ的にマイ〇〇を構築せずにはいられない、そうしたムーブメントを指して「ヲタ」と呼ぶ。「制服ディズニー」もコピペなら、ジャーゴンも丸暗記のコピペ、インスタのアングルすらコピペ、何もかもが定型的に動員可能なこんな消費者の一群をもって「ヲタ」とすることにこそ筆者は「ヘン」を覚えなかったのだろうか。

 

 ラウド・マイノリティについて、例えば『スター・ウォーズ』に思いを馳せる。いつしか世界はジョージ・ルーカスによる「マクロ」の箱庭をはるか飛び越えて、ほんのワン・シーンを果てしなく引き延ばした「ミクロ」の二次創作、三次創作を累々と連ね、ついには正史そのものさえも侵食した。彼らの熱量、情報量と比するとき、その「Dヲタ」とやらは、マネタイズのエサに食いつくほかに、いったいいかなる貢献を遂げたのだろうか。

 ストーリー・マーケティングの果てに広がっていたのは、それぞれのマイ・ストーリーのための素材提供、そうした現代消費社会論としてはひたすら明晰にウェル・メイド、なのに当のテーマ設定がすべてを崩壊させていく。

 過剰装飾を重ねた建築様式の流れ着いた先は、Form follows functionのモダン・スタイルだった。情報化社会の飽和点とも見える「脱ディズニー化」とて所詮束の間、遅かれ早かれ行動経済学、人間工学、統計学等に基づく機能や利益の最適化に還元される。ブラック・ボックス内の「マイ・ディズニー」に顧慮すべきものなどひとつとしてない。universeだろうが、uniBEARseだろうが、そこに新しい話などもはやない、否、はじめからない。イッツ・ア・スモール・ワールド、このありあわせの世界にできることといえば、いつか来た道を単調にループさせることだけ。