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真夜中のカーボーイ (幻冬舎単行本)

真夜中のカーボーイ (幻冬舎単行本)

 

 

 別れてから一度も会っていなかった高校時代の恋人から、電話があり、頼みがあるので会いたいという。普通は胸が躍るところだろうが、40年ぶりともなると胸騒ぎの方が先に立つ。そして人間、60年近くも生きてくると、嫌な予感はたいがい当たる。……

 東京に出てきているから直接、会って話がしたいという。どんどん不安になって泳ぎはじめた目が、卓上のカレンダーにとまったのはそのときだ。

 そうか、今日は818日か!

 嫌な予感は早くも当たった。40年前、いや正確には39年前のこの日に、俺は最低な失敗をやらかして、二度と会えなくなっただけでなく、彼女の人生まで変えてしまった。そして今に到るまで、詫びのひとつもできていない。

 

 それしきの「嫌な予感」など、前振りですらなかった。再会した彼女は末期ガンに侵されていた。見るも無残に萎びた老女最後の願いは39年前の続き、共に見たロード・ムーヴィーを重ねるように、バイクで目指しそして頓挫した白浜行き。かくして「俺」は彼女とふたり、和歌山への旅路に出る。

 

「わかってへんよね。どこもかしこも、変えんでええことを無理やり変えて台無しにしてばっかしや」

「なんか、どこ行っても何やっても昔ほど楽しないのよ」

「若い子らがボーッとスマホ見ながらラーメン屋に行列してんの見ると、大阪も終わったなって悲しなるわ」

 冒頭から悪辣なまでに畳みかける「昔はよかったね」と「今どきの若い者は」の二本立て。その執拗さにひたすら困惑させられ、そして逆に、と深読みを働かせる。物語文学の定型ならば、起承転結を通じて何かが変わる。ビルドゥンクスロマンというにはあまりに齢を重ねすぎてはいるが、この場合ならば、誰かしら若きトリックスターをふたりの間に放り込んで、少しは見どころあるやんか、と認識の修正を促すといった具合に。なんなら死線をさまようという究極の通過儀礼の末、達観した風だった彼女が、一転生を懇願しはじめる、そんな展開だって描けないことはない。

 古来、成長譚の典型といえば父殺し、しかし彼らが接する若者にもはや克服すべき存在としての親など存在しない。だからエントリーシートの尊敬する人物欄に躊躇なく親族を記す。

 必然、彼らの目に映る世界にあって決して成長など起きない。39年ぶりの彼らが交わす会話といえば、ほとんどが昔の続きのアール・デコや建築論、あるいは80年代の甘美な記憶、挙げ句にはさらに遡って古の熊野信仰にすら行き着く、つまるところ、内蔵メモリの作動チェックに過ぎない。

 もっとも、合わせ鏡のようにスイングこそすれど、互いの何が変わることもない。過去によって繋がれど、共に歩むべき現在も、ましてや未来もそこにはない、だからこそ逆説的に彼女は「俺」を必要とする。変わらない、変わりようもない、なぜなら、「何も変わらないことは不幸ではないが幸せでもない」、モダンの果てをめぐる閉塞が主題なのだから。

 

 ベトナムの傷を去勢モチーフに仮託しただろう1960年代のジョーはバスに乗り込み、ニューヨーク次いでフロリダを目指す。カメラを振れば他の乗客が映り込み、車窓が流れゆく。バックグラウンドを詳らかに語らずとも、ポリフォニーを生成するにほんのワンカットあれば事足りる、そして同時にテキサス・カウボーイの疎外は暴かれる。周縁より迷い込んだ彼にできるせめてもの抵抗といえば、ラジオを抱きしめノイズ・キャンセラに代えることくらい。

 対して失われた現代日本の彼女が用意する移動手段は、真紅のメルセデスのオープン・カー。二人きりのその車内に響くのは、破綻を知らないモノフォニー。

 

 彼女から生前の形見分けとしてカルティエのモデルAを贈られる。もっともそれは故障持ち、「俺」は処遇を考える。

「再び時を刻ませるには部品を交換しなければならないが、あのように美術品としての価値も高い時計の場合、たとえ不動でもオリジナルの部品が揃った状態を保つべきだとする判断もある。

 どちらがいいか彼女の意見も聞いてみようと思っていたが、もはや相談するまでもない。デコの形見となる時計の針は、止まったままにしておくべきだ。一番輝いていた頃の時間を永遠の今に封じ込めておくために」。

 結局、「俺」は最後まで再び時を前に進めるべき理由を見出せない。言い換えれば、病によって予めピリオドを突きつけられた彼女が延命を望む理由などもはやない。なぜならば、社会からは既に流すべき時間など失われているのだから。

 

「何も変わらないことは不幸ではないが幸せでもない」。変わりようのない永遠の現在に吊るされた人々、何が足りないわけではない、何もかもがある、それゆえ「何も変わらない」。

 例えば「海外からの情報が今とは比べものにならないほど乏しかった時代。洋楽邦盤のライナーノートは想像に基づく迷解説、歌詞カードは聞き間違えた原詞をさらに誤訳した珍ポエムの宝庫だった。おかげで聴く側の想像力も膨らんで、あれこれ推測し合う楽しみもあった」。

 欠損ゆえに「想像力」の余地があった、それはつまり、「俺」や彼女が輝けるビジネスチャンスでもあった。「記憶に残るんは結果より過程」、足りないピースがあれば埋めてしまえばいい。そして今は何もかもが足りている、それゆえ何もかもが物足りない。彼らの従事する出版もアパレルも何もかもが再生産を超えない。加わるものといえばせいぜいがコストカットのための奸智。サイジングの失敗を追認するためにでっち上げられたビッグ・シルエット、グッチを典型にあまりの開き直りぶりにもはや神々しさすら錯覚させる丸出しのロゴ――トレンド、すなわち成金向けのおもてなしなどバブルで既に消費済みのデジャヴュに過ぎない。

「最近、80年代カルチャーって評判悪いやん。何も残さんかったみたいにいわれて。ほんでも当時は充分すぎるほど楽しかってんから、それでええやんなぁ」。

 そう、何も残さなかった、ゼロ成長社会を誘発する数多の因子を除いては。

 

 現代の若者にひとつだけうらやましいことがある、と彼女は言う、スマホがあること、そうすれば連絡が絶えることもなかったのに、と。そしてすぐさまそれを打ち消す。ないからこそ生まれるきらめき、今日もしかしたらつながらない、その危うさが恋を恋たらしめていたことに間もなく気づく。

 すべて消費行動に既定のスクリプトを超えるものなどひとつとしてない。リアルのことごとくは難なく掌へと圧縮される。何もかもがタッチパネルで表示可能、置換可能、組織化可能、無知な子どもの夢から覚めて、突きつけられ、宙づりにされ、さりとて死ねない。

 そしてただ一切は過ぎていく。