A Diamond Is Forever

 

ホンモノの偽物 (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズIII-15)

ホンモノの偽物 (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズIII-15)

 

 

 この本を書くうえで最も大変だったことのひとつは、どの「ホンモノの偽物」を取り上げるかを決めることだった。……

 結局わたしは、真正性に関する問いをかき立てるもの、単純明快な答えがないと思うものを選んだ。贋作の絵画が、スペインの贋作者のように、それ自体として収集の対象になったら? それでもやはり偽物と考えるべきだろうか? しかしそれは真正な偽物だろうか? いたずらでつくられた1725年の模造化石は、約3世紀前の人々の自然観を理解するのにいかに役立つのだろうか? 古代マヤの絵文書「グロリア・コデックス」のような人工遺物は、発見時の状況や来歴が著しく信用できない場合、本当に真正なものだと認められるのだろうか?

 話をさらに進めてみよう。21世紀のいま、自然のものをコピーするテクノロジーが進化し、そうしてできたレプリカはそれ自体として倫理の問題をはらむようになっている。研究所製のダイヤモンドが、物質レベルで天然ダイヤモンドと同一だとしたら、その二つを分けるのは何なのだろう? 消費者の圧力? では、「偽物」が天然物よりも倫理的だということはありえるのだろうか? 同じことは合成香料についても言える。自然のどの部分は真に複製でき、どの部分はできないのか? あるいは、模型、レプリカ、コピーが博物館や観光地で十分に「本物」の代わりになるのはどのような場合か? 逆に、明らかに模造だと思われる場合は? ライヴ配信、ドキュメンタリーなど、自然界を見る方法はたくさんあるが、現地に行けない場合、どれが最もリアルで、最も真正な方法なのか? そしてそれらの代替物の代償は何なのか?

 

 2020年、話題をさらった新書の一冊に『椿井文書』なるテキストがあった。椿井政隆なる書き手による古文書の数々が、実は全くのでっち上げだったというその告発は、しかし単に偽書を暴き立てるに終わらなかった。この作品が問いかけたのは例えば嘘の中に秘められた真実。村の歴史も家系図もそれ自体としてはもはや疑いようもなく捏造、ただし、椿井に依頼を寄せたそのクライアントがかくあれかしと寄せた願いはそこに紛れもなく反映されている。それがもし村同士の縄張り争いを有利に進めるためだとしたら、そんな動機の推察が稲光のごとく誘われるとき、その文書は時にあらゆる「本物」の史料にも勝り真実を衝いて告発する。

 砂上の楼閣はそうそうたやすく崩れやしない。椿井文書が全くのでたらめだと暴かれたところで、一度共有された既成事実はそう簡単に更地へと戻りやしない。町おこしに用いられた、姉妹都市が結ばれた、これら「本物」のことごとくが椿井文書に由来する、それら事実を踏まえるとき、歴史の真実なる「本物」の重みとやらは果たしてどれほどのものだろう。

椿井文書―日本最大級の偽文書 (中公新書)

椿井文書―日本最大級の偽文書 (中公新書)

 

 

 そして改めて『ホンモノの偽物』について。

「偽物はわたしたちのためにつくられる。偽物をつくる人は、現代〔同時代〕のテイストにアピールできる」。

 本書のトピックは概ねこの至言に凝縮される。

 例えばスパニッシュ・フォージャーの手による絵画の場合、「皮肉なことにそのパネル画はあまりに中世風だった」。「顔はどれも首をかしげていて、口は弓のように曲がり、足はバレエを踊っているかのように外を向いている。また、フォージャーは中世の世俗的生活の非常に限定された面を描いており、チェスやタカ狩り、騎士やとがった頭巾の女性が目立つ。庭、音楽、遊戯、一角獣、どんちゃん騒ぎの光景だ」、つまりは当時の売れ線そのままに。そして決定的なことに「ひびが入っていた……が、そのひびは都合のいいことに人物をいっさい消さないように入っていた。……あまりにもこれ見よがし。あまりにも完璧。合点のいかない見事なディテールがあまりにも多い」。

 人工香料の中でバナナのフレーバーを特徴づける化合物のひとつに酢酸イソアミルがある。ところが、今日の市場の大半を占めるキャベンディッシュにはこれがほとんど含まれていない。かつてグロスミシェルなる種が市場を席巻した時代に、この香りに基づいて酢酸イソアミル・ベースの「バナナ味」は作られた。ところでこの種はウイルスにより絶滅して久しい、つまり消費者の大半はその味を知らない、にもかかわらずその香りに「バナナ味」を認める。「グロスミシェルが時代のバナナだったときにつくられた合成バナナフレーバーを味わうということは、前世紀のバナナの名残を味わうということだ」。

「本物」に触れたい、その切なる願いが「本物」をもはや「本物」ではあれなくしてしまう、そんなケースも歴史には散見される。例えばフランスはラスコーの壁画の場合、「かび、菌、バクテリアが壁で成長しはじめ、絵の一部を覆い、色素を侵食した。この恐ろしい急成長の原因は、ラスコーを愛する多くの来場者……が吐き出す二酸化炭素にあるとされた。増加する二酸化炭素が、来場者の体温と合わさって、洞窟を暖め、いろいろなものが成長しやすい生態系を生んでしまった」。この教訓を踏まえ、後に見出されたショーヴェ洞窟においては、はじめから公開の道は閉ざされ、厳重な管理にもとに置かれた。そして代わって設けられたのが、レプリカとしての「ショーヴェ洞窟」だった。壁面はモルタルと樹脂、温度と湿度は空調でコントロール動線は整理され、非常口も設置、そんな「巨大なコンクリートの小屋」をテーマパークと謗ることはたやすい、しかし筆者は強調する、その「目的は、来場者に旧石器時代について伝え、芸術に感嘆してもらい、次々と人を捌くことだ」。その「美的、工学的」観点において、このレプリカは紛れもなく「それ自体の芸術的な空間を生み出している」。

 

「偽物」の特異性は、しばしばそれが「ホンモノ」よりも「ホンモノ」である点にこそ存する。

「ホンモノの偽物」について考えると何が窺えるといって、人工香料の比喩そのままに、「ホンモノ」を「ホンモノ」たらしめる凝縮されたエッセンスがこびりつくそのさまである。例えば人工ダイヤモンドを見れば、その宝石を宝石たらしめるものが例の強固な炭素原子の配列にないことも、硬度を生かした工学的な用途にないことも、ましてや天然と人工とを問わず放たれる輝きにも透明感にもないことも知れる。研究に取り組んだジェネラル・エレクトリックの幹部は70年代にこう予言した、「ダイヤモンドをつくればつくるほど、値段は安くなる。すると神秘性が消え、価格はほぼゼロになってしまいます」。そして今に至るまで、その成就は日の目を見ない。

 誰も「本物」それ自体を知ることなどできない、だからこそ、「ホンモノ」を欲する、そしてしばしば、「わたしたちのためにつくられ」た「偽物」、「本物」よりも「ホンモノ」らしい「偽物」、「ホンモノの偽物」に手が延びる。

 ここでもまた、現代をかたち作るだろう例の標語にたどり着く。

 人は誰しもが見たいものだけを見る。