ダンシング・ヒーロー

 

盆踊りの戦後史 ――「ふるさと」の喪失と創造 (筑摩選書)

盆踊りの戦後史 ――「ふるさと」の喪失と創造 (筑摩選書)

  • 作者:始, 大石
  • 発売日: 2020/12/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 本書で軸足を置くのは、戦後以降の盆踊りの変遷である。盆踊りは戦後、社会の移り変わりと共に変容を重ねてきた。伝統的なものであろうと非伝統的なものであろうと、それ以前とまったく同じスタイルを継承しているものはほとんどないといってもいい。

 そうした変容を後押ししたもののひとつが、レコードが普及し、再生機器が安価になったことだ。そのことによって必ずしも特別な技術を持った音頭取りや太鼓奏者がいなくても、盆踊りを簡単に開催できるようになった。高度経済成長期に入るとそれまで盆踊りの習慣がなかった地区や、団地やニュータウンのような新しいコミュニティーでも次々に盆踊りが始められるようになった。新たに立ち上げられたそうした盆踊りは、やがて地域の「新しい伝統」になっていった。……

 そんな僕が盆踊りの世界にのめり込むようになったのは、30歳を過ぎてからのことだった。西馬音内盆踊りの幽玄さ。阿波おどりの熱狂。郡上おどりの高揚感。すべてが美しく、惚れ惚れするような風格があった。どこにも地元といえる場所のない自分にとって、歴史ある土地に根付いた盆踊りの数々はあまりにも眩しく、そのリズムに飲み込まれることに喜びと快感を覚えた。

 だが、この日本列島にはそうした歴史ある盆踊りと同じぐらい、僕が幼少期に体験したような盆踊りが各地で行われている。そこでは安っぽいサウンドシステムから雑音まみれのアニソン音頭が流れ、浴衣を着せられた子供たちが見よう見まねで身体を揺らす、不恰好なダンスフロアが広がっている。……

 そういった盆踊り大会は非伝統的かつ素朴なものであるがゆえに、その意義について語られることはほとんどない。だが、そうした盆踊りにもまた、なんらかの役割があったはずだ。だからこそ、非伝統的な盆踊りはいつの間にか地域の「伝統」になり、数十年にわたって続けられてきたのではないだろうか。

 

 それはまるで藤野裕子『民衆暴力』において描き出された情景そのまま。

「『秩序と反秩序のぎりぎりのバランスをつくる秩序装置』というのはまさに盆踊りの本質ともいえる。反秩序へと発展しかねない若者たちのエネルギーをコミュニティーの中心に配置し、盆踊りによってバランスを保つ」。

 束の間の宴をもって、「反秩序」を「秩序」へと書き換えて回収する。古来より続くこの変換なる「盆踊りの本質」は、その対象こそ各々違えど、戦争をまたげども引き継がれる。

 戦後の占領軍統治下に持ち込まれた「レクリエーション」なる横文字の概念はいつしか盆踊りにも転用され、やがて「盆踊りの本質」へと変わる。

 recreation、いやここではre-creationと綴るべきか、この語によって示されるだろう、再‐構築、換骨奪胎の風景が、表題そのままに「盆踊りの戦後史」を特徴づける。

 経済成長の動力源として地方から都市へと送り込まれた労働者によって形成される「コミュニティーにおいて盆踊りは新たな役割を担った。……望郷の念をいくらかでも解消し、孤独を紛らわせてくれるだけではない。他者と繋がり、地域と繋がる場として、あるいは人々がその地域に対して親しみを持ち、『新たなふるさと』としての愛着を育むための場所として盆踊りは必要とされた」。「コミュニティー」未満の何かを「コミュニティー」へと昇華させる、彼らは「ふるさと」のre-creationを夢に見る、その中心に据えられたのが盆踊りだった。

 re-creationの波は、音楽にも現れる。例えば「バハマ・ママ」、例えば「ビューティフル・サンデー」、旧来の音頭のビートと通じるところは特にない。にもかかわらず、「70年代後半以降、レクリエーション・ダンス~ディスコ~盆踊り~竹の子族は背景や文脈から切り離され、『ひとつの型で、みんなで踊る』という一点のみで結びつけられた」。かくして一時の流行歌として過ぎ去ったはずの荻野目洋子「ダンシング・ヒーロー」は、2000年代新たに息を吹き込まれる

 高知の地ではじまったよさこい祭りはいつしか地域の枠を超えて「パフォーマンスの優越を競い合うダンス・イヴェントへと完全に」re-creationされた。最低限のフォーマットさえ満たせば、後はグループ単位で好きな振り付けをカスタマイズすればいい。盆踊りに仮託された「ふるさと」への回帰願望もはるか昔、「コミュニティー」の不可能性を前提に、参加者は各々のタコツボの中で銘々に棲み分けることを選ぶ(この点をめぐる見立ては、筆者の論旨と同じくするものではない)。

 そして福島の地で、盆踊りを通じてre-creationが胎動する。ポスト東日本大震災の「プロジェクトFUKUSHIMA!納涼!盆踊り」。その試みは、「地元がどこであろうと、あるいは地元をどこにも持たなかったとしても、踊りの輪に入ることでそこが地元になってしまう。いわば『地元』の再構築であり、創造。これを『ふるさとの創造』と言い換えることもできるはずだ」。

 年に一度、その場に集える者たちが、同じビートに身を任せ忘我のダンスを死者に捧げる、それはちょうど、古の夏の盛りに「ふるさと」に戻れる魂に思いを馳せたそのさまに限りなく似て。3.11を通じて形成された想像の共同体が、盆踊りの場で受肉する。

 明治期に阿波おどりを目撃したとある総領事は、「消滅し忘れ去られた未開時代の祖先から受け継いだ強度の神秘的錯乱」をもって、その驚異をカーニバルに重ねた。

 かくして盆踊りが蘇る。ここにもまた、re-creationが降臨する。解体に解体を重ねた果て、ついに懐胎の時が訪れる。