「壮大なお芝居」

 

 幣原喜重郎は、評価の相半ばする外交官・政治家ではなかろうか。「協調外交」の推進者だったのか、「弱腰外交」を展開したに過ぎなかったのか、あるいは日本国憲法「第九条」の発案者なのか否かといった具合に、戦前・戦後双方で幣原に対する評価は分かれている。「善玉」「悪玉」とでもいうべき二分法的な理解の間で揺れ動く、論争的な存在でもある。

 本書では、そうした状況をいったん脇において、組織人としての等身大の幣原を描こうと試みた。選民たるエリートではあるが、彼とて戦前・戦後のさまざまな局面で多くの苦悩を重ねたに相違ない。ならば、そこに寄り添った幣原像を描出しようというのが執筆を通じての一貫した立ち位置だった。

 それゆえ、「幣原外交」という既存の枠組みや通説めいた評価、「現実主義」「理想主義」といった概念をア・プリオリに措定して、そこに彼の思想や行動を当てはめることは控えた。レッテル貼りというべきそうした手法は、歴史研究としてはほとんど無意味に思われる。そうではなく、「外務省記録」を紐解き、意思決定過程や文書回付状況を一つひとつ丹念に追うことによって、組織のなかで奮闘する幣原の姿を丁寧にあぶり出したいと考えたのである。

 

 旧来の幣原をめぐる評といえば、例えば小村寿太郎の正統後継者、すなわち、ポーツマス条約をもって「軟弱外交」と国民的な憤怒を誘い、遂には日比谷公園を炎上させるに至った。あるいはヘンリー・デニソンの愛弟子、注ぎ込まれたその外交のエッセンスをやがてワシントン会議をもって結実させた国際協調主義の先駆者。そして、その理念ゆえ、宮家の東久邇終戦管理内閣の後任として首相を委ねられ、新憲法に携わる。

 本書における議論は、これらの側面を何ら否定するものではない。ただし、早々にそうしたパブリック・イメージを揺るがすような「はなはだ乱暴な話」が披露される。

 日露戦争の開戦を釜山の地で迎えた幣原は、その優位を確定させた奇襲攻撃の成功に実は一役買っていた。当時、ロシアが朝鮮半島の情報を本国へと送信するためには、日本の管理下に置かれた電信を用いる他に手段を持たなかった。日本海軍がロシア商船を拿捕したとの報を受けて、幣原は一計を講じる。電信をただちに遮断して、結果、ニュースの本国到着を遅延させることに成功した。かくして「ロシア政府は、開戦機運の高まりを察知する機を逸」した。

 

 張作霖爆殺事件を引き起こした田中義一を批判してはいるものの、いみじくも西園寺公望が喝破した通り、実は「幣原外交」もまた、通説とは裏腹に、優れて近似的な性質を秘めていたことが指摘される。本書でしばしば「対英米協調」なる語が呼び出される。そのアクセントはあくまで英米にある、必ずしも国際フレームを前提とはしない。この一語をもって、例えば満蒙権益の確保を腐心する幣原の――というよりは当時の外務省、もしくは政府の――スタンスを見事に凝縮させてみせる。

 だとすれば、幣原の指揮下で中国の「革命外交」との衝突が引き起こされたのは、歴史の必然だったのかもしれない。彼にしてみれば、「もし自己の本意でなかったとの理由で、すでに調印も批准も終了した条約を無効とすることが認められるならば、世界の平和、安定はいかにして保障し得られるか」。そして気づけば、「条約の神聖」を蹂躙する中国や列強による「日本包囲網」は見事形成されていた。幣原や重光葵が諦念の中に見出すせめてもの着地といえば、両国の関係が「堅実に行き詰まる」こと、そしてその妥協点さえも柳条湖をもって決壊する。

 そしてその苦境にあって、外相である「欧米派の幣原は、亜細亜派である谷[正之]の政策に同調し、リーダーシップを十全に発揮しなかった。換言すれば、亜細亜派と欧米派の両政策派閥間の懸隔はこのときある程度解消され、従来ほど鋭く対立しなくなっていた。なぜなら、幣原自身『満鉄第一主義』を掲げ、満蒙権益の確保を政策課題の第一に掲げていたからである」。かくして国際連盟における協議もまた、「堅実に行き詰ま」った。

 

 政治の表舞台からは一度姿を消した幣原が、戦後にあって「最後のご奉公」に担ぎ出される。「幣原内閣の使命は、GHQとの折衝を通じて占領政策を遂行し、民主国家として再生するための基盤を整備することだった」。とはいえ、「実のところ幣原自身、憲法改正の必要性を感じていなかった」。GHQによって提示された憲法試案に対しても、例の「ジープ・ウェイ・レター」が示すように極めて後ろ向きだった。かの戦力不保持を訴えたと目される男が、である。

 かくして幣原の多面性を訴え続けた本書最大の山場を迎える。221日の首相‐元帥会談を境に幣原は「憲法第九条の『発案者』となった。発案者は自分だと唱え続け、それを墓場までもっていくことを決意した幣原は、壮大な芝居を打つことになったとはいえまいか」。

 筆者は「壮大な芝居」を云う、そして現実にはそのような「芝居」が演じられていない、だからこそ、今日に至るまでのもはや決着しようもない論争を誘う。

 ふと本書序盤の記述が頭をよぎる。

 デニソンとの間でのあまりに有名なエピソード。氏の手による「日論戦争勃発の直前、開戦回避を目的とした日露談判の訓令電報の草稿」を目にした幣原は、外交文書のバイブルとたちまち魅せられ、譲ってくれるよう懇願した。「請われたデニソンはそれを手に取ってしばし見返していたが、やおら立ち上がるとストーブの前まで歩み寄り、突然その綴りをストーブに放り込んでしまった。/……驚いた幣原が、燃やすくらいなら自分に譲ってくれてもいいではないかと詰め寄ると、デニソンは諭すように答えたという。/日露談判はその結果がよくも悪くも小村外相の責任でなされたもので、自分はあくまで速記者として関わっただけである。だが、あなたがこの書類を持っていると、日露談判の電報を作成したのは実はデニソンだと周囲に話すだろう。それは困る。そういう記録を残すべきではないと判断し、焼却したまでである」。

 記録を残すことの重要性、記録を残さないことの重要性、そんなことを本書に学ぶ。