Red Is the Old Black

 

 

 赤毛は昔から“異分子”と見られてきたが、興味深くも不可思議なことに、それは白い肌をした異分子なのである。……人々はいまだに、赤毛に対する偏見は言葉や態度で表す――それが肌の色や、宗教や、性的指向の話なら、もはや支持しようとか公言しようとは夢にも思わないであろう、配慮に欠けた考えを。……つまり、男性の赤毛は悪に通じ、女性の赤毛は善に――というか、少なくとも性的魅力に――通じる。……

 いまも昔も、赤毛にこういうことは付き物だ。赤毛の存在、そして赤毛に対する態度――文化的類型化、文化的慣習、文化的発達――は、歴史上のある時代・ある文明から、別の時代・文明へと、ときに思いもかけない形で、多くの場合あらゆる理屈と常識をも無視してつながっている。2000年以上前のアテナイで見られた赤毛トラキア人奴隷の影響から調べはじめて、ファストフード・チェーンのキャラクター、ドナルド・マクドナルドに行き着く。隔離集団における潜性遺伝の特徴と遺伝的浮動について調べていき、ドラマ『ゲーム・オブ・スローンズ』の“野人”で終止符を打つ。絵画に描写されたマグダラのマリアを追っていくと、いつしかドラマ『マッドメン』の女優クリスティーナ・ヘンドリックスにたどり着いている。

 

 本書を手に取りめくってみると、まずはカラフルな口絵の数々全33点が待ち受ける。その中にあっても一際目を引くエドガー・ドガ《髪結い》をはじめ、赤毛をめぐるのどかな表象史で本書を彩ることができたなら、どんなに幸福だっただろう。

 DNAのスキャニングによる限り、赤毛――そしてほとんどの場合、同時に白い肌とそばかすを伴う――をもたらす劣性遺伝子が人類に発現したのは、今日多く観察されるスコットランドアイルランドではなく、アフリカからの北上を目指し中東に至るまでのどこかの地点。爾来、いかにも見た目に特徴的なこの性質は、単に髪のカラー・バリエーションの一角という以上の地位を割り振られずにはいない。例えばポンペイフレスコ画に描かれるのは、「ただの赤褐色の髪をした女性ではなく、カエサルの愛人であり、アントニウスの恋人であり、王国を危機に陥れ、征服よりも死を選んだクレオパトラ――赤毛の典型として本書でも繰り返し言及する、魅惑的、官能的、衝動的、情熱的で、燃えるような赤い髪をした男たらし――なのである。彼女の髪が赤色に見えるのは、私たちがそう見たいからだ。赤ほど似つかわしい色がほかにあるだろうか?」

 本書を読む者ならば、誰しもがただちに気づくことだろう。例えば淫乱、例えば野蛮人、例えば道化、ルッキズムの権化としての「赤毛」が、限りなくステレオタイプとしての黒人論と図らずとも通じていくそのさまに。ただし同時にややこしくも、そこには合わさるのはほとんどの場合、白い肌。

 そうしたねじれは、英国王室における赤毛の出現をもっていよいよその頂を極める。時は16世紀、女王エリザベス1世は赤い髪と白い肌をもって自らをブランディングしてみせた。奇しくもイングランドのフラッグと同じこのカラーリングが、宮廷周辺で大流行を見せる。男は髭を、女は毛髪をこぞって赤く色づけた。染料はルバーブのような天然素材、もしくは硫酸。肌に至っては鉛白、副作用は当然に鉛中毒。

 ある調査によれば、「実際の人口に占める割合はわずか(ゆえに注目に値する)2~6%あたりだというのに、赤毛のキャラクターを使ったテレビ・コマーシャルが全体3分の1にものぼる」。ジュリアン・ムーアも赤い、マイケル・ファスベンダーも赤い、そしてベネディクト・カンバーバッチはキモい、じゃなかった、赤い。

 さりとてこれらを根拠に、ルッキズムから羨望の対象へ、という物語を描き出すには、まだあまりに遠すぎる。今もなお、赤毛をいじられ自殺へと追い詰められるティーンだっている。ジンジャーイズムが決して消えたわけではない。だとしても、もし仮に旧来からの変化が認められるとすれば、「赤毛の人たちはどんどん共同体を形成しつつある」こと、共に手を取り、「ステレオタイプをまずは把握する。そのマイナスの面を否認する。それらに戦いを挑む。……自分のイメージとして気に入っている面は受け入れ、それを利用して前向きで希望の持てる何かを作り出す」、そんなプロセスを知ったこと。

 オランダ、ブレダで開催される世界最大の赤毛フェス、その地を訪れた筆者は知る、「赤毛の人はどこを居場所と感じるのか? あれほどさまざまな場所を起源と言えるなら、故郷はどこなのか? その答えは見つかった――まさにここだ」。

「故郷」という安全基地を持たずして、人は闘うことなどできない。