もう恋なんてしない

 

オリーヴ・キタリッジ、ふたたび

オリーヴ・キタリッジ、ふたたび

 

 オリーヴは「年を取るとね」と言い出した。「人からは見えない存在になる。そういうものなのよ。ただ、それだけに解放感があるとも言える」。

 

 前作『オリーヴ・キタリッジの生活』のその続き、ただしオリーヴは相も変わらず「あまりにもオリーヴ」、「オリーヴに言わせれば、何でもガラクタだろう」、そんなアクを煮詰めたようなフィギュア。

 といって、スマッシュ・ヒットの焼き直しとして処理されるべき作品ではない。『生活』の巧みさはまず何よりも、オリーヴの傍らを通り過ぎていった人々に照準を当てることで、逆説的にオリーヴの人格が形づくられていくその時間を浮き上がらせるその構図にこそあった。

 対して今作、こじらせた老境にあってそうした移り行きは影を潜めたかに見える。「あたしは聞いたことを伝えてるだけ」。代わる代わる人物が背景を携えて彼女の前に現れようとも、ほとんどのケースにおいて、それらは彼女において「聞いたこと」という以上の機能を持たない。会話の機会を持ったところで、「ああ、だめだ、また自分のこと言ってる」、そんな一方通行に終始する。

 オリーヴのもとを再婚した息子が訪れる。相手のアンも同じく再婚、連れ子二人ともどもいけすかない。血のつながった初孫は夫ヘンリーの名を継ぐ、「ああ、いい子だ!」と自分に言い聞かせる。行き違いを抱えたまま、彼らが家を去ったその後ではたと気づく。「さっきアンにどなられる息子を見て、ぎくりと驚いてしまった。……オリーヴ自身も、アンと同じことをしていた。人前でヘンリーにどなりつけた。誰の前だったか、よく覚えてもいないのだが、ともかく、その気になれば平気で痛烈なことを言っていた。つまり、こういうことだ。あの息子は母親と結婚したようなもの――」。

 母により変えられてしまった息子がいる、そしてそれに気づけども、変わらない、変われない母がいる。

 

 オリーヴが暮らすのはメイン州の架空の町、クロズビー。田舎以上サバーバン未満、自動車なくして生活は成り立たない。80歳を過ぎてなお自らの運転でウォルマートに繰り出す。介護付きの住宅に移り住むも、毎朝食はドーナツ屋のテイクアウト、移動手段はもちろん自動車。マイクロバスを試してはみるも、同乗者との会話はまるで弾まず、そして帰り道、「オリーヴの隣には誰も来ない。誰もが誰かとおしゃべりしている」。

 脳腫瘍を抱えた母が生前、車を愛撫している姿を思い出し、現在の己を投影する。

「車だけが自由をもたらしてくれる。だから車もかわいかった」。

 どこへでも行けるはずのホンダのちスバルで駆け抜けるロードサイド、定点と定点を結ぶだけ、そうして「自由」を手に入れたはずの彼女は「孤独だ。孤独なのである!」

 

 オリーヴをオリーヴたらしめた時間をめぐる試論としての『生活』。

 オリーヴによっては生きられることのなかった時間をめぐる試論としての『ふたたび』。

 しかし、だからこそ、不意に訪れる共感の一瞬がまばゆさを放つ。

 かつての教え子と海沿いのカフェで偶然に再会する。数年前には桂冠詩人の座を射止めた彼女、もっとも「長い教師生活にあって、およそ有名人にはなりそうもない生徒がいたとすれば、このアンドレア・ルリュー」、「いつも一人で歩いて、さびしそうな顔をしている子だった」。そしてその日も、「きたない格好して、ぷうっとタバコ吸って。ほんと、さびしい子なんだわ」。

 後日、ポストに文芸誌が投げ込まれていた。付箋が示すのはアンドレアの詩。

「この詩のテーマが、どかどかと胸に響いてくる。つまり、さびしくて怖がっているのは彼女だ――オリーヴだ――ということ。そして最後の締めくくり。『詩に書いていいと彼女は言った/どうぞご自由に』」。

 

 施設に住まう彼女にもやがて友人イザベルができる。

 夫はともに薬剤師、子どもはともに医師、今やともにおむつが欠かせない――おあつらえ向きに何もかもが似ていた。いつしか互いに「個室のスペアキーを交換して持ち合うことにした。毎朝、毎晩、どちらかが相手のドアにキーをすべり込ませて、無事を見届けてから出ていくのだ。この夜から、もうオリーヴは思いがけないほどの安心感を得ていた。8時にドアの開く音がして、イザベルが寝室に入ってきた。オリーヴは手を振り、イザベルも振り返して、それだけでイザベルが出ていった。それが決まりになった。オリーヴは朝の8時にイザベルの様子を見て、イザベルは夜の8時にオリーヴの様子を見た。その際に、まず口をきくことはない。手を振ればよかった。これはいい、と双方が思った」。

 この程度のふれあいに充足を見出せる。幸福なのか、はたまた痛々しいのか。

 孤独なオリーヴに限らない、人間が救われるのは、案外、これしきの瞬間なのかもしれない。