飢餓海峡

 

 「十二階の入居者の便器の詰まりを直し、二十九階の入居者の代行で銀行に行き、八階の入居者と三十二階の入居者の駐車場に関するもめごとを仲裁して、あわただしく一日が過ぎた」(「ミス・チョと亀と僕」)。

 誰もが思う、カート・ヴォネガット的、村上春樹的、と。

 このショート・ストーリーの人物造形においても、その影響は深く確認される。

「ここ何年かの僕の人生でいちばん劇的な事件は、シャクシャクと一緒に暮らすようになったことだろう」。薄給の介護施設職員、四十路の「僕」と暮らすこのシャクシャク、実のところ、猫のぬいぐるみ。やれやれ、こういう現代フィクションを幾度通り過ぎただろう。

 そんな「僕」が、とある女性の遺言により亀を託される。「のろ、のろ、のろと自分の速度で部屋の中を探検して回る」、動く、とりあえずぬいぐるみよりは。「僕」は双方の「背中を代わる代わる撫でていると、僕と世界が絶対につながっていなくてはならない必要はないという気がする」。

 

 まず恋愛、結婚、出産の三つを手放し、次いで就職、マイホームも手放し、さらには知人友人関係と夢さえも手放し、ついにすべてを手放した。

「必要はない」との諦念に達せざるを得なかった、いわゆる韓国「N放世代」の絶望文学の系譜、そうカテゴライズしてもおそらく破綻はない。事実、いずれの小説においても経済の閉塞が下敷きになってはいる。ただし、その観察は本短編集の一面をあらわすに過ぎない。

 現に本書には「N放」どころか、それらを表面上は一通り満たした人々がたびたび登場する。ただし彼らでさえも、この「必要はない」の感覚が覆う。「必要はない」というのは不正確かもしれない、すれ違いを重ねる末に、もはや「必要」の仕方、伝え方を見失ってしまった肖像、むしろトータルから透ける作家性としてはそのニュアンスにより近い。

 例えばある夫婦の場合。

「彼が手も洗わず、靴下も脱がずにばたっとソファーに横になってしまったので、ジンも思わず顔をしかめた。彼は最近よくそんなふうにして寝て、朝までずっと眠っていた。寝るならちゃんと寝るしたくをしてから寝てよとはっきり言っただけなのに、ユウォンはそれを違う意味に受け取ったらしい。彼は眉をひそめて、ソファーからばっと立ち上がった。

 一日じゅう大変な思いをして働いて帰って来た人間に、せいぜいそんなことしか言えないのか?

 ユウォンは肩を震わせてつぶやいた。ジンは、この小さな騒動でシウが目を覚ますのではないかと心配になった。子どもが寝ている小さい部屋のドアをしっかり閉めた。子どもは夜の寝つきがひどく悪く、朝によく寝る子だった。朝、まだ目が覚めていない子をずるずる引っ張って保育所に連れていかなくてはならない。ユウォンはそれが辛いと言うジンを理解できなかった。

 俺は君がうらやましいよ。出勤時間が遅くて。

 彼は、ジンがあたふたと会社を出て保育所から子どもを連れて帰り、夕ご飯を作り、子供をお風呂に入れる大変さについて話すときも、いつも似たような反応だった。

 俺も六時がチーンと鳴ったら子どもの顔を見に走っていきたいし、うまいものを作って食べさせたいし、眠るまで抱っこして横になって本を読んでやりたいよ。それがしんどいなら、俺と会社を交代する?

 あてこすりで言っているのではなく、ユウォンは本当にそう思っているようだった。彼とこんな会話をしていると、遠く離れた土台と土台の間に白くかぼそい綱を一本渡して、その上を渡って歩いているように心許ない」(「引き出しの中の家」)

 夫婦でありながら、友人でありながら、互いに通じることばを持てない、薄皮一枚の違和をはらみ続ける。そしてその誤読は、しばしば「優しい暴力」として表象する。他方、そのリスクを恐れるがあまりに陥る帰結といえば、「決定を下すべきときに、何も決断しないという決定をしたために、全生涯にわたってその決定通りに生きている」(「夜の大観覧車」)。

 

「ずうっと、夏」の「私」は日本と韓国のハーフ。もっとも父母の会話は他の例に漏れず、「五パーセントの韓国語と二十パーセントの日本語、二十五パーセントの英語……残りは沈黙だ。浅い沈黙、深い沈黙、安らかな沈黙、うんざりな沈黙、ヘンな沈黙」。そのせいだろうか、「私が小さいときからおかあさんは一生けんめい韓国語を教えてくれたが、それは母国や母語への深い愛情の発露などとは全然関係ない。自分の言いたいことを完全に理解してくれる他人、韓国語がわかる聞き手が切実に欲しかっただけだ」。ただし、母子において要請される機能は、娘の感知する限り、「聞き手」であるに過ぎない、自らが「聞き手」を引き受けるつもりは母にはどうやらないらしい。「私はときどき、おかあさんは娘の体重だけでなく魂の重量にも関心があるんだろうかと気になった」。

 そんな「私」が、異国のインターナショナル・スクール編入される。クラスの中でぼっちの「私」と、同じくぼっちのメイがある日、韓国語でつながる。「母語で話すあの子は無口なんかじゃなかった。頭の中に詰まったあんなにたくさんの言葉を、どうやってぐっと押さえこんでいたんだろう」。そしてさらには他の旧友との間にも輪ができる、マルチリンガルの「私」に訪れた夢のような季節は、ただし間もなくはかなく過ぎ去り、再び「私」は声を失う。

 翻訳できる、なのにできない。

「必要はない」、はずはない。誰もが言葉を持っている。欠けているのは、通わせる術。

 この渇き、言語を超える、国境を超える。