And when you get the chance

 

ヤクザときどきピアノ

ヤクザときどきピアノ

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  仕事が終わったばかりでやることもない。(中略)何の気なしに映画を観にいった。(中略)

 そのうちの一本が『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』だった。第一作同様、全編ABBAのヒット曲を使ったミュージカル映画だ。(中略)

 正直、たわいない内容で、凝ったストーリー展開も、目を見張るようなアクションも、どんでん返しもない。親子の情という泣きの旋律を刺激されても、この程度で涙を流せるほどウブでもない。普段、暴力団というアクの強い題材を取材しているのだ。正常位ではイケない。

 ところがABBAのスマッシュ・ヒットである『ダンシング・クイーン』が流れた時、ふいに涙が出た――。

 

 というより、涙腺が故障したのかと思うほど涙が溢れて止まらない。(中略)

 

 魂の奥底に入り込んだのは、紛れもなく音楽そのもの……ABBAのメロディーとリズムとハーモニーだった。

 

 特に特徴あるピアノの旋律が直接感情の根元を揺さぶった。

 

〈ピアノでこの曲を弾きたい〉

 

 雷に打たれるようにそう思った。身体が音楽で包まれていた。

 

「ピアノはもともと『ピアノ・フォルテ』という名称だった。(中略)ピアノという言葉は、音楽の授業で習ったように“弱く”を意味する。対義語は“フォルテ(強く)”である」。

 ところが、当のその楽器を主題としたテキストには、ひたすらにフォルテ、というかその域すら超えたフォルティシモのインフレーションしかない。上品な世界なのだから上品に書け、なんて荒唐無稽な話がしたいわけではない。ただでさえ刺激の強い言い回しの上に太字と大型フォントを重ねる、フォルティシモのパンチラインを多用しすぎるあまり、テキスト全体からコントラストが失われ、かえって刺激に麻痺した読者にそのメッセージが伝わらなくなってしまっている、そのことが問題だと訴えているに過ぎない。

 中年男性がレッスンを乞うてピアノ教室を探し回る。ようやく取りつけた見学のアポイントメント、間近でデモンストレーションに接したシーンを描写する。

レイコ先生の指は、機械仕掛けのように振動していた。曲が進むと身体全体が鍵盤の右端、高音部分に寄っていき、まるでキリで突くように鋭く鍵盤を叩いた。強い連打に移行した刹那、衝撃波が俺の頭を横殴りにし、火薬がはじけ、突き飛ばされるような感覚があった」。

 大音量に身体ごと持っていかれる、脳が痺れる、おそらくその衝撃に嘘はない。しかし、このシーンに至るまでの静寂の溜めが配されていないために、読者の側ではことさらに音が爆ぜない。それどころか、小賢しい比喩表現を想起する余地すらも吹き飛ばすほどの圧は持たない、そんな印象にすら帰着しかねない。

刺激と感覚はコントロールしないと麻痺してしまう。ジャンキーに言わせれば、麻薬を使う時だって、適度に断薬しないといい飛びは生まれないのだ」。

 けだし名言、本書全体がいみじくも「コントロール」を欠く。ジャンキーのくだりにしても、たまに織り交ぜるからこそ映える、笑える。乱打すれば慣れ切った身体を「飛び」もなく素通りしていく。

 ピアニッシモを散らす余地はいくらでもあった。例えば「俺は左右の手を同時、かつ別々には動かせない。体内にそれを可能にするための筋肉や神経を育てていないからだ」。こうした鍛錬を冗長なほどに描き出し、そしてある日、課題の階梯を一歩上がっている自分に気づく。ワックスを塗らない『ベスト・キッド』が誰の記憶に残っただろう。大リーグボール養成ギプスを身につけたままちゃぶ台で飯を食わない星飛雄馬が誰の心を掴めただろう。

 そこを省いてしまえば、成長物語としてのカタルシスは機能不全を来たさざるを得ない。

 

 もちろん、強度に次ぐ強度で文字数を稼げるほどの体験などそうそう降りかかるはずもない。となればどうやってつなぐか。他のテキストを切り貼りする他ない。

ベートーヴェンの系譜はこうして枝葉を拡げ、リストの系譜には日本人ピアニストの永井進、田村宏、小山実稚恵、若林顕、田部京子という錚々たるメンツが並ぶ。対してレシェティツキーの系譜には」――。

 どうあがいても、コピペのためのコピペを超えない。

 

 このテキストに仮託されたメッセージは、本来的には、至極シンプルなものだった。

「急き立てられず、音楽と親しめばいいではないか」、ただし、「練習しないと弾けないの。弾ける人は練習をしたの。難しい話じゃない」、この「スポ根ピアノ道」を経ずして、真に「音楽と親し」むことなど叶うはずもない。

 Play piano.

 ただこれだけの、ド直球を投じているに過ぎない。