寺田ヒロオの代表的な作品といえば、「背番号0」「スポーツマン佐助」「もうれつ先生」「スポーツマン金太郎」「暗闇五段」などがあげられるが、これらはいずれも1956年~64年にかけての8年間に描かれている。64年に少年週刊誌に描くことをみずからの意志でやめてから以降は、子どもマンガの世界から忘れられるようになったマンガ家である。すくなくとも読者たちからすれば、第一級の人気があるマンガ家の一人であった寺田ヒロオは、「みずからの意志」で消えていったように見えた。そういうかたちで後退していったマンガ家は、戦後マンガ史のなかでは寺田ヒロオ以外にはいない。
なぜ、寺田ヒロオはそういう選択をしたのだろう。それが、本書をつらぬくテーマである。その課題を考えていくと、だれからも愛された「テラさん」らしい、あたたかくやさしい作風をつくりあげたものはなんだったのだろうという関心とともに、かれが生きた戦後という時代に向かわざるをえない。
私のごときトキワ荘弱者でさえも「テラさん」という響きくらいは知っている。
そのパブリック・イメージの形成において多くを負うのは、まず間違いなく『まんが道』。つまり、手塚治虫なる絶対的カリスマの下に集える綺羅星のごとき面々に日常の手ほどきをしたメンターとしての「テラさん」。
藤子不二雄、赤塚不二夫、石ノ森章太郎……錚々たる面々、ただしそれは今日から振り返ったときに言えること、上京しトキワ荘に転がり込んだ彼らに未来のあてがあったはずもない。ましてや今とは比較にならぬほどにマンガというジャンルが偏見にさらされていただろう時代、遮二無二のめり込む彼らの世間から見た異形性といえば、おおきなおともだちプロトタイプ程度の表現でもおそらくははるか足りない。
そんな彼らにとってこそ、寺田はかえって異形だった。そもそもが野球に傾けるほどの情熱をマンガに抱いていたわけでもない。映画を「観ないと勉強にならないかなと思って行ってみるんですが、すぐ頭が痛くなってだめなんです」。夜な夜な開かれる集いでも、寺田の役回りはもっぱら聞き手、強烈な表現衝動があったわけでもない。
ただし、寺田には常識があった。富山の藤子に寺田が宛てた、いわば生活マニュアルが本書に引かれる。そこには生活費の目安から自炊に必要な道具、あいさつ回りの礼儀作法に至るまで、丁寧に記されている。
互いに足りないものを埋め合う、そんな蜜月の夢は寺田のトキワ荘からの退去をもって打ち切られる。
そして寺田はいつしかマンガ界の異形と化した。
晩年の寺田の仕事に『『漫画少年』史』なるクロニクルがある。寺田にデビューのきっかけを与えたその媒体の創刊マニフェストは謳う。
「漫画は子供の心を明るくする
漫画は子供の心を楽しくする
だから子供は何より漫画が好きだ」
そして、寺田が筆を折るころには、既にマンガは「子供」向けのメディアを脱していた、それはあたかもトキワ荘の顔ぶれが先取りしていたように。
周知の通り、『サンデー』と『マガジン』は同日に創刊された。寺田も執筆陣に名を連ねていた『サンデー』の当初の先行は、間もなく逆転を被る。少年誌の表現は寺田曰く、「えげつなく、どぎつくなっていった」。プレッシャーに身をやつし、そして寺田は競争から降りた。
右手に『ジャーナル』、左手に『マガジン』、とまでやがて称されるに至るライバル誌のこの世の春を築いた功労者といえば梶原一騎。その架空のキャラクターの葬儀は文壇の雄、寺山修司によって仕切られた。こうして少年誌は少年誌であることをやめた。
寺田の居場所はなかった。
原著が出版されたのは1992年のこと、そして令和の世に復刊された本書を手にする読者は、あるいはトキワ荘の伝説を既にあまりに消費し過ぎたのかもしれない。どうしても既視感が拭えない。
そのデジャヴュは、あるいは上梓された段階ですら約束されていたのかもしれない。1987年の『まんが道・青春編』のドラマ化において、テラさん役に指名されたのは河島英五、その代表曲の一節。
目立たぬように はしゃがぬように
似合わぬことは無理をせず
人の心を見つめつづける
時代おくれの男になりたい
疑いの余地なく、キャスティングの担当者は、阿久悠によるこの歌詞に寺田を重ねた。そして、その同一線上に筆者は寺田を置いた。この詩を超えて何を語ることがあるだろう。