どこまでも行こう

 

 戦後東京は、テレビを抜きに語ることはできない。首都の発展は、テレビというメディアの歴史と共鳴していたと言っても過言ではない。戦後東京は、テレビという新しい視聴覚メディアの登場によって、人びとの間で都市としてのリアリティをもったのである。戦後東京史とテレビ史の関係を見てみることは、東京史研究にとって新しい知見を生みだす。ここで本書でテレビに注目する具体的な理由を、簡単に三つの側面から述べたい。

 第一に、1953年に誕生した日本のテレビは、東京(キー局)を発信の拠点とした「ネットワーク」で編制されていった。……ネットワークによる系列化が「東京(=キー局)」と「非東京(=地方局)」の関係を鮮明な形で浮き彫りにする。……

 第二に、戦後、テレビというメディアは全世界を包み、家庭のなかに「外側の世界」を供給し続けてきた。家庭にいながらにして、人びとは未知の世界を経験できるようになった。……/テレビの電波という他メディアにはない媒体特性によって、わざわざ出かけなくても、家にいながらにして外部の世界を「望遠」的に見聞きすることができるようになった。

 第三に、忘れてはならないのが、テレビは番組という生産物を生みだし、「東京」の姿を全国に映し続けてきたことである。……

 以上をまとめれば、次のようになる。テレビでは(1)東京を中心として構築されたネットワークが、(2)電波という広範性をもって、(3)東京発の番組を全国にあまねく供給していった。言い換えれば、テレビによって、東京の東京による東京のための都市・東京のイメージが、全国の「東京」観を下支えしていったのである。

 

1970年代に入ると、テレビのなかで〈東京〉は不在となった。……『東京とはこうだ』ではなく、いわば『東京とはどこだ』とテレビ自身が取材地を喪失したのである」。キー局から全国に向かって電波が一斉に発信される――その象徴はもちろん東京タワー――、この現象はいつしかひとつの矛盾をはらむようになる。つまり、〈東京〉は「つねに〈地方〉との対比として語られ」る。〈東京〉から〈非東京〉へと播かれていたテレビを通じて、気づいてみれば、〈地方〉ならざるものとして消去法的な仕方でのみ〈東京〉が規定されるようになる。

 その中であえて〈東京〉をドラマに仕立てる。例えば向田邦子が選んだのは〈現代のメルヘン〉としての下町だった。寺内貫太郎というパターナリストによって示されるのは、かつてもしかしたらあったかもしれない、ただし確実に今はなき幻影としての〈東京〉。対して山田太一が「発見」した〈東京〉は、郊外にあった、いや、郊外にしかなかった。「現代を最も反映させている人物を描くとすると、下町、あるいは農村のように、土地と結びつくことのない、根の無い人たちを、となる。で、東京の郊外が舞台となってしまう」。ノスタルジアを剥ぎ取った「これが本当の俺んちさ!」は、「東京西南の新興ニュータウンでなければならなかった」。あるいは倉本聰の場合、一度〈東京〉を経由した上で、富良野に〈第三の家郷〉を求める。

 山田洋次は既に1970年にこの一連の推移を『家族』において予言していた。すなわち、〈第一の家郷〉である長崎の小島を離れ、万博に沸く大阪などの都市圏をかすめ、〈第三の家郷〉としての北海道へたどり着く。父権主義の幻想を剥ぎ取られた笠智衆は、例によって自らの存在を持て余すことしかできない。このロード・ムーヴィーにおいて〈東京〉に割り振られる機能は、葛飾・柴又のノスタルジアなき、幼な子を喪失する無情の経由地に過ぎない。

 

「リカは東京そのものだ」。

 原作におけるこのあからさまに過ぎるマニフェストが、ドラマにおいても発せられていたかは定かではない。しかしいずれにせよ、トレンディドラマ、わけても『東京ラブストーリー』が描き出したのは、「消費都市」としての〈東京〉だった。テレビというメディアの特性としての、茶の間と画面の向こうのボーダレス化は、ここに栄華を極める。「東京に行けば、ヒロインのような恋ができるという錯覚をドラマは視聴者に抱かせていったのである。東京に行けば、仕事もあるし、お洒落な部屋に住めるし、素敵な恋にめぐりあえる。突然道ばたで素敵な異性に出会い、大恋愛へと発展していく可能性に東京は満ちている」。

 

 テレビが見せたバブルの夢も遠い昔、同じく脚本家・坂元裕二によって書かれた2016年の月9、『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』において浮上したのは、「階級都市・東京の『現実』」だった。底が抜ける恐怖が現実味を帯びればこそ、そのせめてもの底にしがみつく、ゆえに下層階級はかえってしばしば封建的、権威主義的な社会制度に対して消極的にせよ支持を示す。有村架純扮する介護職員にとっての〈東京〉とは夢の場所、つまり、上など見ない、希望を地を這うように低く設定する限りにおいての。一方、高良健吾演じる貧しきパートタイマーにとって、「東京は夢がかなわなかったことに気づかずにいられる場所」、つまり、この視覚メディアが見せたのは、「現実」を見ない、見せない装置としての〈東京〉だった。

 

 レビューと呼ぶのもはばかれる、全体の梗概をかけ離れた断章に終始しているのも、ゆえなきことではない。そしてそれは断じて筆者の構成力の問題ではない。

 現代のドキュメンタリーや散歩番組にしばしば見られる作りとして、「特定の社会問題に切り込むことはなく、淡々と訪れる人びとのインタビューが並べられる。/……定点観測するだけで番組が成り立つ」。筆者はその理由を「格差」が自ずと映り込む点に求める。その観察に異議をさしはさむつもりはない。しかし、それ以上に、「特定の社会問題」をもはや共有できない、その事態そのものが「格差」を無二の仕方で表していやしないだろうか。「格差」は単に所得の多寡のみを指さない、それはむしろ情報にこそ由来する。受け手が画面から何を捉えるかが予見できない、だからひたすらに素材を盛り込んで、垂れ流し、何がどう引っかかるかは各人に委ねるより他ない。見る‐見られるのリテラシーを共にしない、だから思わぬ仕方で時に炎上し、時にバズる、そしてただちに忘れ去られる。

 テレビが映し出しただろうこれと同種の体験が、本書と接するに際しても必ずや襲う。ある者は、ドキュメンタリーのワンシーンの淡い記憶に思いをめぐらせる。ある者は、ドラマをめぐって職場や学校で会話を交わした誰かの顔をふと想起するかもしれない。またある者は、お台場観光を懐かしんで、しばしその手を止める。

 個人的な記憶の回路が開くこと、それこそがむしろ本書の正当な読まれ方と認めねばならないのかもしれない。なぜならば、この情報のモザイク化、カタログ化こそが、〈東京〉を無二のかたちで表わしているのだから。

 それぞれがそれぞれの仕方で断片を拾い集める。全体像など誰も持たない、持ち得ない。この現象こそが〈東京〉を定義する。