ダ・ヴィンチ・コード

 

『サルバドール・ムンディ』がわれわれに伝えるのは、美術界はすべてよしというわけではないということだ。世界一有名な画家の、もっとも最近見つかった作品――その途方もない値段は措くとしても――を、今日に至るまで見ることができないこと以上に、美術の生態系に機能障害が生じていることを鮮明に象徴し、明確に証明するものは、まず想像がつかない。こうした事態は、この作品だけの特殊な事例だと過大評価されるべきでないし、見過ごされるべきではない。

『サルバドール・ムンディ』が告げているのは、文字どおり、美術が今われわれから奪われつつあるということだ。アートが広く身近なものとして拡大しつつあるまさにその瞬間に、それを体験する機会が奪われつつあるのだ。そして美術に起こっていることは同時に世界経済にも起こっている。……

 美術界には、「これまでずっとそうだった」という言い方がある。それはおそらく正しくて、それこそが問題の本質である。だが、美術批評家たちはそのことを間違った形で理解している。彼らは美術が商品化され、名声やマネーロンダリングの道具にされていると訴える。それは秩序を欠いた、不透明な市場のせいだと攻撃する。だが、市場はずっと以前からそうだったのだ。今はそうした悪習はさらに広がり、一層複雑な様相を呈している。だが、それはインフレと近代化によってただ押し進められただけにほかならない。世界は変化しているが、美術界の本質はなんら変わっていない。……美術界の生態系を支配するルールは17世紀から変わっていない。ディーラーとコレクターは、そうした原始的な慣習を悪用して美術市場をモンスターに変えてしまった。

 現代の美術界が抱える問題は、美術界が変わったということではなく、変わっていないということなのだ。

 

「絵画の価値が決まる要因は、作者の名前と、その絵がいつ描かれたものかといったことだけではない。その画家の作品がどれだけ希少かということに加えて、公平さを欠くようだが、所有者たちの社会的地位や、……どれだけの期間、名門諸家に置かれていたかが大きな判断材料になる」。

 かのB.d.マンデヴィルが17世紀に発したこの嘆きは、今日のアートシーンにおいても、寸分たがわず引き継がれる。

 2017年、クリスティーズは『サルバドール・ムンディ』の競売にあたって、その来歴を高らかに謳い上げた。「レオナルドが救世主キリストを描いたこの傑作は、かつて3人のイギリスの国王、チャールズ1世、チャールズ2世、ジェームズ2世が保有していました」。

 それぞれには一見、確かな裏づけを与えているかにも取れるお歴々の所蔵リストがある。とはいえ写真技術などない時代のこと、そこに何が記されているかといえば、ただの文字列に過ぎない。画家のスペリングすらもちぐはぐで、絵画のディテールが緻密に刻まれるわけでもない。主題がメモされていたとして、数多制作されただろう聖書や神話をめぐるモチーフのうちのどの作品をリンクさせてよいものか、そこに推測を超え得るものなど事実上ない。「主の肖像。レオナルドによる半身画」、ただこれだけの記述が『サルバドール・ムンディ』を指すものだとどうして確証できるだろう。

 

 いかなる変遷をたどったにせよ、少なくとも誰の目にも確かだったことは、流転を重ねたその絵がひどく損傷している、というその事実だった。クリーニングをかけてみると、「何よりひどいのは、表面の歪みを修復しようとして不適切な処置が施されたのか、顔の正面部がどこかの時代に剥ぎ取られたというか、『削り取られて』しまっていることだ。深く削られた皮膚の下から骨が出てくるように、クルミの木の茶色い木目がむき出しになっている。/絵全体を見ると、レオナルドが描いた元の絵具の層の6割は失われていると思われた。彼が意図したとおりに描いて完成された状態が生き残っているのはおそらく2割。そして残り2割は完全に崩壊していた」。

 言い換えれば、8割は新たに描き加えられねばならない。この仕事を委ねられた修復師は、あるとき目の前の絵画と『モナ・リザ』の口元の類似性を見出す。そして彼女はレオナルドの仕事との霊的確信に導かれるまま、あの微笑みを手本に『サルバドール』の口元を「修復」した。過去の修復の痕跡を剝がし取った際には現れていたはずの二本の右手親指も、「修復」を通じて文字通り一本化された。裾に寄る皺も「修復」の都度、その数や色味を変える。

 

 そしてこの作品をめぐる疑わしき真贋は、来歴や作者を超えて価格にすら及ぶ。

 わずか1175ドルで買い上げられた絵画が、ナショナル・ギャラリーでの展示という究極のお墨付きを得て、ロシア人資産家の手に渡る。彼が支払ったその額、12750万ドル、加えて手数料としてその1%。しかし、所有シンジケートが受け取ったのは約8000万ドル。間に入った美術商が、手数料では飽き足らずに中抜きをしていた。後に訴訟を通じて明らかになったところでは、この仲介がクライアントとの過去の取引を通じて着服した上乗せ額は累計10億ドルを超えていた。

 とはいえ、後のオークションで絵画は4億ドルで落札された。何はともあれ、約3億ドルの勝ちでまとめたかに見える。しかし実際にはこのオリガルヒの受取額は推定13500万ドルにすぎない。2億ドル強は、第三者保証なる制度を通じて吸い込まれて消えた。対して主催者のクリスティーズは、手数料の5000万ドルを含めて、このわずか19分間をもって13500万ドルを稼ぎ出した、と目される。

 

 ザ・ラスト・ダ・ヴィンチは、そしてザ・ロスト・ダ・ヴィンチへと変わる。極めつけの真贋は、今肝心のこの絵画がどこにあるのか、をめぐって交わされる。

 2019年のパリのルーヴルで催された大回顧展にあたって、その絵画は目玉になるはずだった。展示の実現のために、フランス議会は特別法さえも制定した。目録にも盛り込まれ、展示スペースも割り振られていた。しかし所有者は黙殺を決め込んだ。ルーヴル・アブダビの呼び水になる、その公式プレス・リリースもいつしか雲散霧消した。

 どうやら、その落札はサウジアラビアの王族によってなされた。よりにもよって、際立ってラディカルなことで知られる「イスラムの一国の王朝の事実上の長」が「キリストの肖像画を買い上げた」。

 あるいはやがて再び日の目を見る機会もあるかもしれない。文化外交の具としての美術の歴史を踏まえれば、いかにもあり得る展開ではある。事実、おそらくはそうした目的にもとに、カタールとの競合の末、落札されたには違いないのだから。しかし、と筆者は呼びかける。「それは隠れ蓑にすぎない。背後では人権問題の改善を求める人たちを何人も拘束している。美術を政治的カモフラージュにして、裏で行っていることを隠蔽しようとしているのではないかと、常に注視しなければならない」。ことここに至って、政治的意図の真贋さえも『サルバドール・ムンディ』は問い返す。

 虚心坦懐に絵画と向き合うことなどもはやできない、あるいはその不可能性はそもそものはじめから埋め込まれたものなのかもしれない。だからこその皮肉を筆者はぶって見せる。「これこそまさにわれらの時代のレオナルド、事実ではなく感情に訴えるポスト・トゥルースの時代のレオナルド」、と。

 フェイクか否かは、ファクトではなく感情によって決せられる。誰が代々所有していたのか、それがいくらで取り引きされたのか、なんてことはもちろん、誰が描いたのかも、それどころか、何が描かれているのかさえも誰も知らない。だとすれば、人は絵画に何を見る? たとえ『サルバドール・ムンディ』を目にすることができたところで、実物を前にして生じるだろう事象は、もはや鑑賞体験ではない。これまでもそうだった、これからもそうあり続ける。各々が各々の見たいものをそこに見る。ナルシスよろしくアートという名の水鏡の向こうに己が感情を映し溺れる。ポスト・トゥルースを言祝ぐ、そしてその証に賽銭としていくばくかの金を投げつける、果たして他に何ができるだろう。