水辺のゆりかご

 

 長い間にわかってきたのは、実は僕もごく普通の……ありきたりの男なのではないかということだ。しかも、自分は普通の男ではないとうぬぼれていて、そう信じ込むために大変なエネルギーを費やしてきた普通の男だ。これまでに会ってきた普通の男たちの行動に嫌悪感を抱き、ああはなるまいと思っていたにもかかわらず、結局は自分も同じようになっていた。少年の頃には、男は男らしくあるべきだと信じていたし、自分は男らしくはないのではないかと不安に思っていた。それはいつからかその反対に、いわゆる「男らしい男」を嫌悪し、そうなるまいとするようになった。最初に僕が嫌悪し恐れる伝統的な男らしさの象徴となったのが、父だった。父と長く接してきたことで、僕には男らしさへの抗体ができているのではないかと思っていた。ぶっきらぼうで大酒飲みで、妻の存在などないがしろにする、そういう「男らしい」男に自分がなることなどありえないはずだった。何しろ、そういう男が傍からどう見えるか、どれくらいひどいものか、僕は実際に見てよく知っていたからだ。(中略)ところが、僕は家にいる対等なはずのパートナーとの約束すら守れない男であり、口にこそ出さないが、そのことに次第に気づき始めてもいた。

 

 本国ではロング・セラーだというケイト・フォックス『イングリッシュネス』において、とりわけ強烈な印象を残すパートがある。それは「イギリス人の日常生活におけるユーモラスな自己卑下」をめぐる、アメリカ人との対比をめぐるくだりで、その具体例として筆者が持ち出すのが、雑誌に掲載される個人広告、日本でいえば、お見合いサイトや出会い系における自己PRのようなもの。

 ニューヨーカーが謳うのは「完全無欠な人間」で、「自分が身体的、知的、職業的、社会的、道徳的に完璧であることを長々と、圧倒的な迫力で述べている」。例えば「スレンダーでセクシー、大学教授で詩人」、「ひと目を惹く100万ワットの微笑」、「ハンサム、若々しく、知的」、それでいて彼らがしばしばへりくだってのたまわくは、「決して自分を自慢しない」。

 対してロンドン人がわざわざ金を出してまで、まだ見ぬ未来の伴侶に自らを売り込んで言うことには、「太った47歳の、不機嫌な女」、「被害妄想、嫉妬深く、ときに恐ろしい」、「閉経期」、「禿げ、ちぎ、肥満、醜悪」、「孤独で自暴自棄で相手をへとへとにさせる」。

 こうしたユーモアとアイロニーをもって真にイギリス人の国民性とするならば、この『「男らしさ」はつらいよ』についても、同様の裏読みを至るところに配さねばならないのかもしれない。

 そのキャリアはいかにも華やかなものだ。出身はリンカンシャーという地方部、無論家族は労働階級、幼くして両親は離婚、でありながら、公立校から叩き上げてケンブリッジへと進む。数多の演劇人、コメディアンを輩出する名門サークルで早々に頭角を現し、学内ではスターと目される。やがてテレビやラジオで脚光を浴び、多数の賞にも輝き、例えばアップルのキャンペーンにも抜擢される(軽く炎上したようだ)。twitterのフォロワー数は現在52万人。

 しかし、例の英国気質のなせる業か、これらの芸能における成功についてはWikipediaを通じて知られるに過ぎない。あるとき指導教官にささやかれる。「生まれつきの頭のよさだけでも、ある程度はできるようになるでしょう。でもね、それだけだと首席にはなれないのよ」。読者はここに怠惰な学生の典型を見るべきなのか、うかつなプライドの漏出と捉えるべきなのか。

 もしかしたら私は本書の端々に配されたイングリッシュネスを受け取り損ねているのかもしれない。

 

 そして父になる

 おそらくこの自伝は、まず何よりも二人の幼い娘へと捧げられている。父のようにはなりたくない、なのに気づけば父としてかつて父の歩んだだろう軌跡を辿りかける自らへの戒めとして、筆者は「男らしさ」という主題を見つける。

「僕はこれまでに何度かジェンダーに関連する文章を書いてきたが、それに強硬な反対意見を寄せてきた人たちは例外なく、『男は常に男らしくしろ、堂々としていろ』と言いたがる男性たちだった。/(中略)僕が彼らに言いたいのは、そういう考え方は男たち自身も救わないし、他の誰も救わないということだ。問題を抱えている男性の多くは、まさに、男らしく常に堂々としていようと努めていることが原因でそうなっているのだ」。

「男も泣いて構わないし、心配なこと怖いことがあればそれを人に話していい。そうしたければ女の子と遊べばいいし、女の子と同じような格好をしてもいい。ピンクが好きなら好きでいいし、そうすることが好きなら母親と出かけていい。全員がサッカー好きでなくても構わない。興味がなければ堂々とそう言えばいい。/(中略)ジェンダーに関するルールは、子供たちが自分で作るわけではない。大人が教えるのだ」。

 おそらくはこれらの露骨に過ぎるメッセージを読み解くにあたって、反語性や諧謔性を折り込む必要はない。そしてこれらのジェンダー論からさして目新しいものが掘り出されることもない。

 言い換えれば、世界は新しい話などしようがないほどに似たような場所をループし続けている。

 

 あくまで等身大のセルフ・ポートレイトとして本書を読む。

 筆者が演劇にのめり込むきっかけとなったエピソードが紹介される。

 それはグラマー・スクール時代の発表会、主役を予定されていたクラスメイトの急病により直前にそのポストに指名される。担任はおそらく脇役として楽しそうに稽古に打ち込む姿を見て白羽の矢を立てた。筆者はそのキャストをとあるドラマの名物キャラに似せて演じた。まんまと狙った通りにオーディエンスが沸いた。注目される味を知った。会場にいた「母は後ろの方で立って見ていた。微笑んではいたが不安そうだった。しかし、僕の方を見て、控え目に親指を立ててくれた」。

 たかが学芸会が筆者をショービズの世界へ導く、ついでに経由地としてのケンブリッジへも。たかがこれしきの成功体験にすがるしかない、その限りで人間は脆い、たかがこれしきの成功体験から這い上がれる、その限りで人間は強い。

 そんな機会にすら恵まれなかった者にできることといえばせいぜいがアルコールか、セックスか、マウンティングか。1000のドクトリンよりも1の自己肯定が、結果的には「男らしさ」を遠ざける。