100%のじぶんに

 

 本書に収めた文章は、大阪と東京を片道2000円台という低価格で結ぶ深夜バスに乗って行ったり来たりしながら、たまにそれ以外の土地にも出かけ、いくつかのWEB媒体に執筆したものが中心だ。どの文章も、お金がなく、暇だけはあるような日々をどう楽しもうかと考えた末に生まれたようなものばかり。のんびりした時間が流れる店を訪ね、そこにいる人々にお話を伺ったものも多い。全編を通じて派手なものはなく、書き手のせいで随所にしみったれた雰囲気が漂い、気恥ずかしくもある。

 しかし、考え方次第で、なんでもない日々を少しくらいは楽しいものにすることができるという思いは確信に近い。年に1回か2回、ドーンと海外へ旅行するのももちろん最高だけど、遅い時間に起きた日曜日でも、「今まで通り過ぎるだけだったあの店に行ってみよう」とか、何かテーマを設けて散策してみたら案外いい1日になったりする、そんなイメージだ。思うようにならず、息苦しさを感じることもある毎日の中で「まあ、まだまだ楽しいことはあるよな」と少しでも前向きな気持ちになってもらえたら嬉しい。

 

「シンプルな目的だけ用意して、あとは勢いで旅をしてみると、どう転んでもそれなりに楽しめる気がする」。

 おそらくは一定以上の世代にとっては当たり前に過ぎて当惑を誘われるのではなかろうか。パックツアーならともかくも、旅ってそういうもんでしょ、と。

 知人の何気ない口コミを頼りに各地を訪ねてみる。これもまた普通に過ぎて、そんなことが記事になるのか、と不可思議の念を抱く向きもあるだろう。

 筆者が足を運ぶのは例えば、見た目に営業しているのかすら定かでないような、ラーメン1500円とかの街中華。逆に、とかを衒わぬ限りインスタ映えすることもなければ、食べログでバズることもない。さりとて昭和レトロを訪ねて、といった企画意図でもないらしい、有り体に言えば、金がないことを前提に何かやってみようと試みたら、図らずもアップデートされぬままに時を重ねた店舗やサービスが拾われた、といったニュアンスにより近いように思われる。

 スマホ以前、どころかブログなんて概念すらない時代ならば、あるいは2019年にまとめられた本書の切り口は公表の機会すら得られずじまいで、日記どころか、酒の肴の雑談として空費されていたかもしれない。

 ある時代の普通が、気づけばそうでもなくなっている。時にその間隙に徒花が咲く。

 

 そしてテキストは、ポスト・コロナの時代へと投げ込まれた。つまり、日常が日常を喪失した時代における日常系として。

 少し前までならば、取材などと構えるまでもなく、ローカルな食堂で暇を持て余した人懐っこい店主が無駄話を振ってくる、なんてこともあったかもしれない。しかし、現代にあっては「濃厚接触」の壁がどうしようもなく横たわる。居酒屋に集まってあえて割り勘ではなくそれぞれが飲み食いした分だけを支払ってみる、そんなものは店による、人による、で少し前までならば企画と呼べるのかすらも怪しいようなテーマだった。しかし今となっては別の意味で企画として成立しない、なにせ会食もできなければ、酒もおいそれとは出てこないのだから。「昼スナック」の席で見ず知らずのおじさまがきゃりーぱみゅぱみゅを熱唱するシーンなど、自粛警察の格好の餌食に違いない。そもそもが利益の小さな事業体の彼らには、たとえコロナが明けたところで、その間の欠損を埋め合わせるビジネスモデルなど存在しない。

 かくしてこれらの店が消えた街並みで、結果できあがるわずかばかりのエンゲル係数の穴を埋めるのはコンビニとファストフード。今日も嬉々としてケンタッキーやマクドナルドに列をなす彼らが、どうしてマーケティング的に均質化された近未来の日常に不満を覚えることがあるだろう。

 

 ライターの先達にメッセージを託される。

「これはノスタルジーでもなんでもなく、古いお店には、行けるうちに行って、見ておいて欲しいですよ。神戸でも大阪でも、きっとこれからどんどん古い物がなくなっていくでしょう。どうか、行けるうちに行ってください。それだけです」。

 おそらくこのテキストは失われゆくものをめぐる平凡なフィールドワークとして著され、そして間もなく時代によって書き換えられた、紛れもなく、既に失われてしまったものをめぐる記録として。