「失ったものを数えず、残っているものを数えよ」

 

 私がこれから描こうと思うのは、この「1964年のパラリンピック」の物語である。そのことについて調べてみようと思ったのは、自分が「パラリンピック」の歴史について何も知らない、ということに心もとなさを覚えたのがきっかけだった。

 2020年のオリンピック開催地が東京に決定したのは7年前。以来、政治家や行政、マスメディアはこの大会を「東京オリンピックパラリンピック」と呼び、ときには略して「2020年のオリパラ」といった表現が使われてきた。

 だが、パラリンピックはいつから、「オリンピック」と並べて語られるようになったのか。

 

 1964年のパラリンピックに参加した日本人選手は総勢53人、そのうちの19人は同じ施設の療養者によって占められた。この施設がとりわけスポーツに力を入れていたから、というわけではない。そもそも日本にはまだリハビリテーションという概念すらも普及していない時代、予選など想像だにしなかったその19人が選抜されたのは、単に体裁を整える数合わせのためだった。

 ある自宅療養を余儀なくされていた脊髄損傷の女性――この大会に出場した日本人女性はたったの2人きりだった――は、パラリンピックへの参加を交換条件にその施設への優先的な入所を許可された。練習用のプール、といってそれは地面に掘った穴にビニールを覆っただけのもの。全く未経験だった卓球を急ごしらえで仕込まれる。別の選手に至っては、選手村に来るまで道具の実物すら見たことのなかったアーチェリーに登録し、挙げ句には当日のぶっつけでエントリーすらしていなかった100メートル走に出場した。

 出場者が一様に恐れていたのは、自分が「見世物にされる」ことだった。曰く、「街には障害を持っている奴なんか誰もいない。息子も娘も出るのを嫌がって、家族も出すのを嫌がって、みんな家の中に引っ込んでいたんだから」。そんな彼らが一様に衝撃を受けたのは、外国人選手たちと自分たちとのあまりの落差だった。

 まず見た目からして違う。車いすの彼らは、「下半身こそか細いものの、一方で上半身は見事に鍛えられて筋肉の盛り上がった者も多かった。……ファッションや化粧にも気を遣い、なかには場所によって靴を使い分けている選手もいる」。

 それ以上のカルチャー・ショックはその内面だった。日本人選手といえば、「再び働くなどとは想像すらもできず、病院や施設から娑婆に出ることは全くない、日常生活は看護婦や介護者の手にゆだねて一生、病院・施設で過ごすことを疑わない人々であった」。対して外国人選手は、「職業を聞けば弁護士や教師、官僚や音楽家といった専門職であるのも普通で、競技についても各国の地区予選を戦って代表に選ばれていた」。会話を交わしても、「片や人生の楽しみ方や積極的な地域生活や社会参加を尋ねているのに対し、一方は何も希望がないことを訴えたかった」。

 

 その時代に日本でパラリンピックを開催するというのである。選手の存在もさることながら、並外れた牽引力を有した傑物の存在なくしては成り立とうはずもない。

 序章にしてひとりの女傑に圧倒される。その名を橋本祐子、通称「ハシ先生」という。日本赤十字で長年奔走した、この「レッドマフィアのゴッドマザー」のポリシーは「民主主義は情熱である」、「情熱とは言葉と態度で表すものであり、目の前の相手を『感染させて巻き込む』ものである」、と。英語に堪能な彼女は、パラリンピックに際しても「語学奉仕団」を編成した。呼び出された学生たちに求められたのは、単に通訳業務のスキルだけではなかった。まずは障害者について知らなければならない。ボランティア――あるいは、そんなことばすらまだ浸透していない時代のこと――に戸惑う団員を前に彼女はぴしゃり言い切った。

「迷っている人はね、行きたくない人なのだから、行かなくていいのよ」

 誰が拒めるだろう、テキスト越しにすら伝わるこのカリスマ性を。

 

 そして、もうひとりの圧倒的な傑物、その医師の名を中村裕という。

 転機は1960年、パラリンピック発祥の地、イギリスはストーク・マンデビル病院を訪れた中村は衝撃に打ちひしがれる。「ここの脊損[脊髄損傷]患者の85パーセントは、6ヵ月の治療・訓練で再就職している」。そのリハビリ・プログラムの核のひとつがスポーツだった。今となっては公式にもパラリンピックのパラとはパラレルpararelとされるが、そもそもはパラフレジア、すなわち下半身麻痺者向けの競技会に由来する。この訪問に触発された中村は、オリパラの同時開催へと動き出し、ついにその実現へとこぎつける。

 まこと語り継がれるべきは、19627月の国際大会に際してのことである。彼は、当時で100万円もの金を銀行から借財し、さらには愛車のルノーを売却してまでも遠征費を調達し、2名の選手を英国へと送り出した。

 その中村にとってはパラリンピックすらも通過点でしかなかった。彼は閉会式で誓う。「社会の関心を集めるためのムードづくりは終わりました。これからは慈善にすがるのではなく、身障者が自立できるよう施設を作る必要があります。戦いはこれからです」。

 彼のモットーは「税金を使う立場から納税者の立場へ」。名だたる大企業との合弁会社を設立し、障害者の雇用環境を整え、作業場を「工場」へと変えた。車いすに座りっきりの人々の課題の一つが褥瘡、それを改善することで欠勤率を国内工場平均の半分以下にまで引き下げた。工作機械も障害に応じてマイナーチェンジを加えた。それらの尽力の末、身体障害者の工場では異例の三交代24時間体制を構築することに成功、1969年ついにはボーナスをも捻出するに至る。

 

 本書が広く推薦に足るのは、一にも二にもシンプルに読み物として面白いという点である。

 今にも増してコンセンサスなど存在しない、どころかリハビリテーションバリアフリーといった概念すらも実装しない時代に、社会を前進させようという志の持ち主である彼らがまさか、クレイジーでないはずがない。そんなドン・キホーテの逸話飛び交うテキストにどうして胸高鳴らずにはいられようか。

 テーマがパラリンピック、障害者福祉となれば、少なからぬ人々が「よきこと」への警戒に身構えてしまうことだろう、そしてそのテキストはさぞや説教臭く、辛気臭いものに違いない、と。しかし本書はそれらとは一線を画さずにはいない。なにせ「よきこと」が「よきこと」ですらない時代に、社会の横紙を突き破って己が信念を貫いた人たちの物語なのだから。

 そしてそんな彼らに圧倒されつつ、はたと立ち止まる。彼らがごく標準的な存在であれない現代は、果たして1964年からどれほどの進歩を遂げているのだろうか、と。