ザ・グレート・ギャツビー

 

 

 子どものころは、大きくなったら自分はヤクザになるものと思っていた。

 幼い時分に実の両親が離婚し、俺は母方の親類だった「弘道会」幹部に預けられ、「ヤクザの子」として育った。小学生時代から組の行事に参加し、中学時代にはパチスロ、ナイター競輪、裏ポーカーとバクチ三昧の生活。組のシノギがあったおかげで何不自由することない生活を送り、俺はワルのエリートだった。

 だが中学生のとき、その「育ての父」が、自身が所属する組の若頭殺害事件に関与し、逮捕されてしまう。

「蛙の子は蛙」という諺を信じ、渡世人として生きる自分を思い描いていた俺は、途方に暮れた。そんなとき、偶然目にしたボートレーサーの試験にまぐれで合格し、俺は競艇(現在は「ボートレース」と呼称)の世界の住人となった。2009年に三重県の津競艇でデビューし、その後、トントン拍子に最上位ランクのA1に昇格。艇界では最上位レースの「SG」(スペシャルグレード)にも出場した。

 いま思えば、あのころが絶頂期だった。

 その後、俺は偶然のきっかけでレースの世界ではタブーとされる「八百長」に手を染めた。不正に稼いだ金額は、少なくとも5億円以上。俺が受け取ったのはその半分以下だが、すべて競馬や競輪など、競艇以外のギャンブルで使い果たした。

 

 本書の読み物としての面白さ、まずそれは何をおいても八百長の手口のスリルにある。

 本命を背負いながら舟券圏外へと自らを消す「ブッ飛び」、あまりにあからさまに過ぎるこの札がそうそう切れるものではないことは誰にでも容易に想像がつく。そこで筆者は「進化系八百長」を発案する。「4着以下になるのではなく、2着、3着に残るとすればどうか。大敗するわけではないので、負けてもそこまで目立たないし、勝率も大きく落ちることはない」。そして「進化」はそこに留まらず果てなきエスカレーションを遂げる。単に自分の着順を決め打つだけでなく、穴を勝たせつつ、本命を沈める波乱のレースを設計できれば、おのずと利幅は膨らむ。

 例えばあるレースでのこと、「俺は、さすがにエースモーターの1号艇に勝てないと思い、優勝できないのであれば『仕事』をしたほうがいいと判断した。/ここで注目すべきはもっとも人気が薄い6号艇だった。普通に大外6コースから走るのであればまず3着に入ることはないが、この選手は前付けでコースを取りに来るタイプの選手であることが分かっていた。/……好都合だったのは、俺が2号艇だったことだ。/6号艇が俺(2コース)の隣の3コースまで入ることができれば、スタートを少し遅らせて6にまくらせ、62着、あるいは3着に入ることをアシストすることができる。/……俺は6にまくらせながら、他の艇をブロックする『援護射撃』をして、レースは『1‐6‐3』で決まった。……投資額を差し引いた純利益は569万円となった」。

 

 おもしろうて やがて悲しき お舟かな。

 乱れ飛ぶ華麗なディールの裏側で、ただし賭場から金を抜くほどに、人間関係の貧しさは際立っていく。これほどに虚しさを誘われるテキストはまたとない。

 金の切れ目は縁の切れ目、とそもそもの八百長を持ちかけた遠い親戚は、捜査に際してあっさりと筆者を売った。「育ての父」は、逮捕を前に筆者が妻のために託した金をくわえ込んで知らぬ存ぜぬを決め込んだ。それどころか、弁護士費用やヤクザ幹部からのカンパさえも丸呑みされた。離婚とともに預けたが最後、両親の影はまるでない。さりとて、身内の他に大した登場人物も出て来ない。飛び火を避けるためにあえて庇って触れていないだけという可能性も排除はしないが、筆者を取り巻く知己の希薄はどうにも否定できそうもない。

 八百長でせしめた金は、ことごとくギャンブルに費消した、と筆者は言う。「俺が賭博に求めていたものは、カネではなかった。ギャンブルで儲けることができないのは、もはや分かっていることだ。いまある有り金を全部使うという一種のカタルシスと、カネが尽きかけ、絶体絶命の状態から奇跡的に息を吹き返すという興奮を求め、俺はカネを賭け続けた」。

 どうせ豪奢の限りを尽くしたところで何が満たされることもない。対して賭博は、直視したくない現実を束の間忘れさせてくれる。依存症患者の典型的なロジックがそこに作用する。

 逮捕をもってこの凍てつく日々が強制的にシャットダウンされたことに、もしかしたら筆者は何かしらの安堵を抱いているのかもしれない。ライターのスキル云々ではおそらくはない、自伝というにはほとんど他人事のように達観した熱量の低さが、本書から耐えがたく滲む。