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 なぜ、いま『風の谷のナウシカ』なのか。『風の谷のナウシカ』について、その創り手である宮崎駿について、なにを、どのように語ろうというのか。しかも、数ある宮崎アニメではなく、『風の谷のナウシカ』を、しかも、あえてマンガ版『風の谷のナウシカ』に焦点を絞ろうとしているのは、いったいなぜか。……

 たやすくは応答しがたい困難なテーマはみな、マンガ版『風の谷のナウシカ』が背負わされることになった。宮崎はそれを、「神様を前提に」することなしに、「人間とか、生命とか、踏み込みたくない領域に入ってしまった」と説明している。むろん、それは「あまり入りたくなかった宗教的領域」の言い換えであるが、もはやそこには、「確信を持って言えること」などなにひとつ存在しない。「ナウシカ本人の当惑はそのまま僕の当惑なんです」という宮崎の言葉は、聞き手を眩惑するために語られたものではない。宮崎駿はたしかに、マンガ版『風の谷のナウシカ』を書き継いでゆくなかで、「言葉にしてしまった途端に、全部まがまがしい宗教になってしまう」ような領域に足を踏み入れていたのだ。そのことに気づいて、畏れとおののきに打たれる瞬間があったのだ、とわたしは思う。……

 それにしても、わたしにとって、マンガ版『風の谷のナウシカ』はまさしく一篇の思想の書として読まれるべきテクストである。くりかえすが、そこには宮崎駿という思想の到達点が、あくまで可能性の種子として投げ出されている。……

 いずれであれ、誤解を怖れずにいっておけば、マンガ版『風の谷のナウシカ』はささやかな奇跡が産み落とした種子のようなものではなかったか。いま、ようやくにして芽生えと育ちの季節を迎えようとしているのかもしれない。いや、時代のほうが喘ぎながら、その黙示録的な世界の見えにくい渚に漂着していようとしている、とでもいうべきか。

 

ナウシカは疑いようもなく、名づけがたきカリスマである。ナウシカとはだれか、と問いかけることはそのままに、カリスマとはなにか、を問うことと同義であるような難問でありえている」。

 ここで筆者によって持ち出されるマックス・ヴェーバーをそのままに重引しよう。

「その当の資質が『客観的』にいかに正しく評価されるべきであろうかは、もとよりそのばあい、概念的にはまったくどうでもよいことである。肝心なのは、それが、カリスマの支配下にある人びと、つまり『信奉者』によって、じっさいにどのように評価されるか、という点だけである」。

 これをそのまま『ナウシカ』の文脈に移し替えれば、彼女に事実「不思議な力」が宿っているか、などと問う必要はない、「不思議な力」の帰属を風の谷の人々が一様に信じている、という現象を確認しさえすれば、彼女を「カリスマ」と認めるに足る。

「客観的」にあるかどうかは知らないけれど――『ナウシカ』をめぐるこの試論は、絶えずこの危うい境界をめぐって戦われる。

 

 物語上、ナウシカの「不思議な力」の源泉は、何よりも蟲を愛でる彼女が腐海の奥へと分け入って、その謎へとアクセスし得た、という一点を通じて説明される。「信奉者」はその語りを受け入れて、彼女を支配者として仰ぐ。誰が直接にそれを目撃したでもない。

 風に辛うじて守られる谷を残して、瘴気による汚染を尽くした地上――それはすなわち人々によって知られる現実――と、腐海の底に横たわる、来たるべき森への転覆をうかがう「青き清浄の地」の対立構造。しかしこれはあくまでナウシカの言うことには、という注釈下でのことに過ぎない。

 

 同じく、人々に語り継がれるところでは、かつて「火の七日間」と呼ばれる戦争があった。ここでもまた、過去に「客観的」にあったとも知れない。

 むかしむかしあるところに、とのおとぎ話の導入において指される「むかし」には、とりあえず現在ではない、という以上の含意はない。

「火の七日間」をめぐる伝承も、非‐現在としての「むかし」に限りなく似る。むしろ、このエピソードは時間軸を違えた、予言としての性質を託される。この性質、信じられている限りにおいて成り立つというその一点において、まさしく「カリスマ」を踏襲する、「不思議な力」と完全に等価であることは論を待たない。

 

 語ること、すなわち、騙ること。

「カリスマ」なき世界では、「虚無」が口を開けて待つ、でもない。「上人」と「表裏をなして、一心同体」をなすかとすら映る「虚無」であってすら、ナウシカのことばの中に住まうに過ぎない。

 まさかナウシカが世界を統べるわけではない。ナウシカナウシカのセカイをさまよう、そして谷の住人同様に読者がそのセカイを「信奉」する限りにおいて、作品は成り立つ。

 ナウシカが言うことには――をめぐって展開される物語としての『風の谷のナウシカ』。

 それぞれが、それぞれのカリスマによって指し示される非‐現在から逆照射される現在を生きる。にもかかわらず、彼らは同じ現在を生きる。そこに価値相対主義ポスト・トゥルース、それどころか「カリスマ」の影すらもない。

 非‐現在をめぐる「カリスマ」としてのナウシカ、そしてその外側で淡々と営まれるだろう現在。闇の中の光、といってそれはあくまで、この図式もまた、あくまでナウシカの語りの地平においてのみ現れるに過ぎない。言葉の外側に誰がそれを確認できるだろう。

 

 そして語りは、いつしか「文字」へとその座を譲る。

 宮崎駿なる作家によって綴られる非‐現在の世界における半ば約束事のひとつに、主人公を導くメンターに年老いた知恵袋をいただく、という点が挙げられる。彼らの経験が有効とされるのは、すなわちその世界が変わり得ぬものとして表象される限りにおいてのことである。同一の出来事がひたすらにコピー・アンド・ペーストされ続けるものとしての世界。マーシャル・マクルーハンよろしく、すべてポスト・グーテンベルクの活字を知ってしまった民は、もはやその世界の複製可能性を免れることはできない。

 いみじくも「文字」によって明かされたるものとしての文明の副産物を示唆するだろう腐海への適応をひとたび獲得した者が、もはや清浄なる世界へと暮らし得ないのと同じく、「文字による専制」をいかに嘆けども「文字」の約束するだろう全体性の幸福を逃れることなどできない。「声」に基づく部族の記憶は、「文字」に基づく帝国の記録によって遠く彼岸へ送られる。

 だからこそ、『ナウシカ』もまた、無垢なるものによる「声」の漂白の後の、「文字」による伝承をもってしか閉じることができなかった。

 ひとたび知恵の実の味を知った者は、永久エデンの園に踏み入ることなどできない。ただし、非‐現在として、決して来たらざる「むかし」の降臨を思い描くことだけはできる、いみじくもそれは「文字」の作用に従って。