JR上野駅公園口

 

 

 喜和子さんと知り合ったのは、かれこれ十五年ほど前のことだ。

 わたしが小説家になる以前のことで、出会った場所は上野公園のベンチだった。……

 人に会って、

「どんなお仕事を?」

 と聞かれれば、できれば、

「小説を書いています」

 と答えたいものだけれども、続けて、

「それはどこで読めますかね」

 などと聞かれることを考えたら、舌を嚙みちぎってでも小説に関しては触れずにおきたいというような心理状態に置かれる。……

 それなのになぜ喜和子さんに向かって、

「小説、書いているんです」

 などといったのか。

 いまとなっては、自分でもよくわからない。

 ただ、言えるのは、不安定な時期だったからこそ、喜和子さんにであうことができたのだろうということだ。わたしの不安定と喜和子さんの不安定が、都合よく惹かれあったのだろう。

 

「僕は、九割がた真実だろうと思っているけどね。いや、なにをして一割引くのかと言えば、すべての記憶は創作であるという意味あいにおいてだけど」。

 とある登場人物によって発せられる、この作中のセリフが本書を象徴する。

 一見するとこの小説は、上野に坐する旧書籍館、旧帝国図書館、現国立図書館の歩みに絡めつつ、喜和子さんの隠された履歴をあらわしていく、ミステリーとは言わないまでも、ちょっとした謎解き要素を原動力に物語を進める構造を取る。そしてもちろんその鍵は、しばしば他ならぬ図書館を通じて与えられる。

 やがて暴かれていく「九割がた」の「真実」は、しばしば「わたし」に少なからぬショックをもたらすだろう。しかしあくまで、このテキストの本懐はその残りの「一割」にこそある。鼻白む「真実」と、図書館によって作られた「創作」としての「記憶」。彼女をめぐり登場するだろう人物たちそれぞれが抱く喜和子さん像のすれ違いは、各人へとあてがわれた「一割」に従って説明される。それはまた、他のキャラクターにおいても同じ、誰しもが「一割」を抱きしめて、そして生かされる。

 

「もし、図書館に心があったなら、樋口夏子に恋をしただろう」。

 後に一葉の雅号、そして何より現行5000円札の肖像をもって知られるところとなる彼女の生涯を「金と本」なくしてどうして論ずることができようか、そしてそれは奇しくも「常に資金源に泣かされた歴史」としての上野の図書館と深い親和性を結ぶ。日々の生活苦というシリアスを極めた「真実」に追われる彼女は、束の間の忘却を図書館に求めた。「来ると三、四冊の本を借り出して、近眼の目を駆使し、ページに顔を擦り付けるようにして、読む」。世紀末の明治に女性が小説で身を立てる、まるで「創作」のような絶頂の日々は間もなく結核をもって打ち切られる。

 

「創作」が次なる「創作」を呼ぶ、その幸福なスパイラルは、それでもなおたかが「一割」を占めるに過ぎないのかもしれない。ただし、図書館のその「一割」が、時に「真実」の次なる扉を切り開く。

 この地にあって、一葉の夢の続きを引き継いだのは、ひとりの外国人女性だった。ユダヤの血を引き、流暢な日本語を操るその女性、ベアテ・シロタが真冬の占領下の図書館を訪ねる。民政局のスタッフのひとりとして託されたミッションは取り急ぎ新しい憲法草案をまとめること、わけても彼女には大いなる野心があった。

「わたしが憲法草案を書くなら、と、ベアテは考えた。

 この国の女は男とまったく平等だと書く」。

 その腹案を支えたのが他ならぬ図書館だった。

帝国図書館と、敗戦下の東京中の図書館が、一人の若いアメリカ人女性にありったけの憲法関連書籍を貸し出した。それらの本はベアテだけでなく、九日間で憲法草案を作り上げた二十五人の民政局員全員にとっての、最重要参考文献だった。

 それは帝国図書館にとっての、最後にして最大の仕事だったのかもしれない」。

 水は低きに流れる。世界史の教える通り、暴力がいとも簡単に樹立するだろう男性優位主義はいかなる「真実」によっても克服されない。それは一点、「創作」によってのみ書き換えられる。ファクトがクソだというならばフェイクで更新すればいい。嘘から真を出せばいい。蜃気楼のごとき「創作」を「創作」と知悉しつつもあえて信じる、そこにこそ近代国家の近代国家たる所以、「想像の共同体」の「想像の共同体」たる所以はある。

 いかなる参照にも堪えぬ「真実」を超えて「創作」を信じること、テキストを信じることがナショナリズムの淵源であるとするならば、実にすべて図書館とは国家の別称に他ならない。