Born This Way

 

 僕は20155月(41歳)に脳梗塞を起こし、高次脳機能障害を診断された当事者です。受傷前より文筆業だった僕は、「当事者の語り」としてこれまで5冊の関連書籍を執筆してきましたが、ここまでの経緯を思い起こすに、ふたつの大きな驚きがあったと思います。

 まずひとつ目の驚きは、この障害の持つ特性や、何に困っていて、そのときにどんな感覚を当事者が感じているのかを「分かりやすく言語化すること」が、こんなにも困難なのか、ということでした。

 身体の不調であれば「こっちに曲げると痛い」「ここを押すと痛い」のように容易に言語化できますが、高次脳機能障害にはこの「痛い」に相当するような言葉がない苦しさや不自由があまりに多いのです。……

 ふたつ目の驚きは、この障害が医療や支援の現場ですらあまりに理解されておらず、必要とされるはずの支援も制度も信じがたいほど未発達で遅れているということでした。……

 けれど、嘆いてばかりいても仕方ありません。これまで足りなかったものは、明白。それはリハビリテーション職や医師などのプロと当事者との、歩み寄りと語り合いです。

 

 知らないことを知りたいから本を読む、何かしらの調べものをする。

 といって、実際のところ、目から鱗が落ちるような僥倖など、そうそう舞い降りてくれるものでもない。そんな生涯幾度かの、忘れがたきセレンディピティにたまさか出会えることもある。

 私にとってそれは例えば、鈴木大介『脳が壊れた』の一節で訪れた。

 脳梗塞での入院時のこと、妻からの介助を受けて、病院内の売店で買い物をした際にその事件は起きた。

「レジで小銭を出そうとすれば、目のピントが合わずに小銭は二重に見え、指は思うように動かずで、遅々として狙った数の小銭が出せない。『小銭を手に持ち続けるための集中力』すら維持できず、一枚二枚と硬貨が手から零れ落ちる。それだけならまだしも、数枚の小銭を数えると、何枚まで数えたのか分からなくなってしまう」。

 筆者はふと全く同じ光景を過去に目にしていたことに気づく。

「たどたどしい指先で小銭を何度も取り落とし、挙げ句に床に財布ごと落として中身をばらまいて……最後は小銭集めを諦め、レジにグシャグシャの五千円札を叩き付けるように置き、漫画のように鼻水をプランと垂らしながら釣り銭ももらわずに店を出た」、そんな貧困女性の取材時のことだった。そのときには「なんとキレ易い人なのだろう」としか思わなかった。

 ところが、自身が高次脳機能障害を抱えたことではじめて、彼女にそのとき何が起きていたのかが腑に落ちる。

 体を具えた存在が、まさしく具体的な経験によって、ふとした瞬間に通う。

 この気づき、後のベストセラー、宮口幸治『ケーキの切れない非行少年たち』にはるか先行する。

 

 おそらくテキストを媒介したこうした通い合いは、鈴木大介高次脳機能障害当事者の間にも起きた。その記述がよりパーソナルで具体的であるからこそ、高次脳機能障害を持った当事者たちが、数多の小異を飛び越えて、大同において自身と一脈ならず通うところを見出して、筆者に救いを求めた。そして、それらのメッセージを誠実に受け止めた、いや、たぶん受け止めすぎた。

 残念ながら、そこに本書のあまりうまくいっていない原因は集約されるように思われる。

 例えば単に障害当事者に起きる最大公約数的なコンセンサスとして「情動のコントロールが難しい」(本書)と聞かされるのと、「病院の敷地内をFMラジオを聞きながら歩いていて、レディー・ガガの『Born This Way』が流れた瞬間にボロボロと夏のアスファルトに涙の染みをつける」(『脳が壊れた』)と聞かされるのでは、果たしてどちらがよりその境地を伝えているだろう。

 無論、全く同じシチュエーションを経験した当事者が他にいるとは思えない、にもかかわらずおそらくは、身体性ゆえにこそ駆け抜けていく風がそこにある。病院の片隅によく置かれている啓発パンフレットにでも書かれているような、当事者のお悩み一覧の項目の一つとしての、実のところ何も言えていないに等しい「情動のコントロールが難しい」よりも圧倒的な波及力を放つ。

 主に左側に対して注意が向かわなくなる症例として半側空間無視を説明されるのと、「義母(妻の母)が『全裸で座っている』感覚……絶対見てはならないものが左前方にある! だから僕は右を見る。左半分の世界はないことにしたいんです僕は」(『脳が壊れた』)では、果たしてどちらが読者を触発できるだろう。試しに自らのマインドへと落とし込んでみる。情報処理に脳のリソースを食われることを忌避しているのだろうか、そんなことを推察する。分かると断言してしまうのはあまりに不遜でそして危険、けれども、磁力に斥けられるような束の間のその感覚を知らずにすらいることに比すれば、本書のテーマであるはずの共通話法の獲得をどれほど助けてくれるだろう。

 当事者としての鈴木大介が見たときに一目瞭然に高次脳機能障害と解する人々が、同様の症例に数多接しているはずの医療関係者によって平然と見過ごされてしまう、おそらくはそのメカニズムと同様の現象が本書においても発動する。通じなさを訴えたいはずの本書が、逆説的にその通じなさを再現してしまう。

 結果として、ある面で本書はひどく残酷なゴールにたどり着く。周囲のベーシカルな理解すら得られないまま孤立をますます深めていく人々にとって、例えば「誰かに頼ってもいい、むしろ頼った方がいい」との投げかけは、単にそんな「誰か」などいない、という現実を突きつけるだけの試みを超えない。逆に、既に周囲や自己との折り合いをある程度身につけた人は、おそらくはそこまでの切迫に苛まれることはない。

 はたと思わずにはいられない、このテキストは誰に向けて書かれているのだろうか、と。