私が松本清張という作家に惹かれる理由は、大きく二つあります。
一つは、清張の作品が戦後史の縮図であるという点です。作品そのものが、高度経済成長期という時代の証言になっているのです。……
その頃に書かれた彼の小説を読むと、たとえば当時の鉄道網や、人々の旅行の仕方、あるいは都市と地方の格差などが如実にわかります。東京という街に絞ってみても、当時はまだ地下鉄が少なかった反面、都電が縦横無尽に走っており都民の足として定着していたこと、一方で少し郊外に行けばたちまち畑と雑木林ばかりになることもわかる。こうした何気ない描写の一つひとつが、現在から見ると、当時の東京なり地方なりの風景を理解するための貴重な資料になっている。そこに大きな価値があると思います。
もう一つは、タブーをつくらないという点です。清張は小説やノンフィクションの中で、天皇制、被差別部落、ハンセン病といったテーマに取り組んでいます。これらはしばしばタブー視され、私たちは正面から向き合うことを避けがちですが、清張はそうではなく、あくまでも自分が発掘した史料や関係者へのインタビューをもとに、そこに忠実に向き合おうとする姿勢を一貫してとっています。……
2019年4月30日、「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」により、天皇明仁が退位しました。5月1日には新天皇徳仁が即位し、元号が令和に改められました。この節目を迎えるにあたり、タブーをつくらずに時代と歴史に向き合い続け、それを実に具体的かつ平易な言葉で書き残した清張作品を読むことで、時代の刻印とは何か、そして時代を超えて残り続けるものは何かを見つめてみたいと思います。
『滝山コミューン一九七四』や『鉄道ひとつばなし』シリーズのように、著作物に自らの痕跡を刻むことを、というよりも自身を主題化することをためらおうとしない筆者においても、本書の肌触りは少しばかり異質と映る。
おそらくは松本清張の読書案内として本書を手に取るだろう多くの読者において、むしろその作品を前にしたときに生じるだろうギャップには、かなり面食らわされるのではなかろうか。
例えば『点と線』、例の4分間トリックをもって広く語られるように、鉄道描写に一定のフォーカスが向けられることには一見、さしたる不自然はない。香椎という地名に着目することで見えてくる何か、なるほど興味深くはある。そもそもが旅行誌の定期連載として書かれた作品でもある。
しかし、このミステリーをめぐる淡い記憶を本書と照合するとき、やはり巨大なはてなが頭をかすめずにはいない。さて、こんな内容だったか、と。
本書に取り上げられるいずれをとっても、なるほど確かに主題をあからさまに逸脱するわけではないのだろう。しかし、原武史というレンズ越しの清張の風景はどうにも、固有の歪みをもって映らずにはいない。この試みから見えてくるのは、清張よりもむしろ筆者自身なのである。
我田引水の極みといえば未完の遺作『神々の乱心』、筆者によれば、「清張は、近代国家になったといわれる日本でも、宮中には『古代王朝のシャーマニズム的宗教の名残り』が脈々と生き続けている、そして影響力も持っていると見抜いた。/……ここで思い出すべきは2016(平成28)年8月8日、天皇明仁(現上皇)自身が語った『象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば』です。その中で天皇明仁は、天皇の務めとして『何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ること』を大切に考えてきたと言っています。『何よりもまず』大切なのは『祈ること』、すなわち宮中祭祀なのです。清張の洞察はそこにつながるのです」。
うん、聞いた、ほぼ同じ話を、この間ラジオで。
ここまで読んだ限りでは、自身へと引きつけるその手法を私が盛大に揶揄しているようにしか見えないことだろう。
確かにそこには独特のアクの強さは横たわってはいる、にもかかわらず、その指摘は本書への否定的な評価を意味しない。なぜならば、この牽強付会にこそ、清張の清張たる所以をとらえようというのが、このテキストにおける筆者の試みなのだから。
清張はいわゆる「プロの学者」ではない。しかし筆者に言わせればこのことは、歴史学界のパラダイムに従って、そのバイアスを通じてしか史料に触れることのできない、固有のジャーゴンや文体を通じてしか著すことができない、というその束縛を免れている、その裏返しに他ならない。
「独学の強さ」ゆえにこそ、文献を読む自由、書く自由を謳歌できた清張をなぞるように、筆者もまた、あえて己が関心に委ねるがまま、清張を読み換えてみせる。
各々のアングルやフォーカスに従ってテキストを読み解くこと、読み解かざるを得ないこと、その呪縛があればこそ、幻視と限りなく紙一重の仕方で、時に歴史が浮き上がる。だからこそ必然、清張はフィクションとノンフィクションを行き交わねばならなかった。
「フィクションで書ききれなかったことはノンフィクションで、ノンフィクションで迫りきれなかったことはフィクションで、とジャンルにこだわらず自らの関心に忠実に向き合い、書き続けた清張」が歴史を愛でたのと同じ仕方で、筆者もまた本書を「自らの関心に忠実に向き合い、書き続け」る。
清張を愛読するという経験の表明として、これほど見事なやり方が果たして他にあるだろうか。