アノミー的他殺

 

 いま、普通の“事件ノンフィクション”には、一種の定型が出来上がってしまったように感じている。犯人の生い立ちにはじまり、事件を起こすに至った経緯、周辺人物や、被害者遺族、そして犯人への取材を経て、著者が自分なりに、犯人の置かれた状況や事件の動機を結論づける。そのうえで、事件が内包している社会問題を提示する。……

 私も当初は、そのスタンダードなスタイルにはめ込むようにと取材を重ねていた。そんな中で、ワタル[山口県周南における殺人放火事件の被告人]本人が事件について正直に語ることのできない状態にあることを知り……同時にこれまでとは違う、もう一つの切り口に気が付いたのだった。まるで金峰地区を乱舞する大量の羽虫のように、この事件の周りには、うわさ話が常にまとわりついていた。……

 事件ノンフィクションの定石が打てないという焦りが確信に変わってゆくとともに、村のうわさを追いかけたいという気持ちが沸き起こった。そこから、村人たちにとってのうわさ、そしてわれわれにとってのうわさとは、いったい何なのかを深く考えたくなったからだ。こうして、本書の裏の主人公が決まった。

 いざ村に足を踏み入れてみれば、そこにはネットやテレビ、雑誌といったメディアに全く流れていないうわさが、ひっそりと流れ続けていた。

 

 このマニフェスト――といっても、上記引用はあとがきによるのだが――にある通り、本書のアプローチは「スタンダードなスタイル」には遠い。おおまかに言えば、事件そのもののドキュメンタリーというよりも、その事件を取材する筆者についてのドキュメンタリーとして、テキストは構成される。

 取材に回り、資料に当たり、そうしてある程度の筋立てを掴んだところで、改めて時系列や因果を整えて活字化する、そんな常道をあからさまにはみ出す。各々のタイミングで細切れに得られた情報が小出しに並ぶ。ストレートに言って、これほどまでにとっ散らかった事件報道に出会うこともそうはない。序盤早々読むだけ時間の無駄か、と本を閉じかけてすらいた。

 あからさまなターニング・ポイントがあったわけでもない、しかしいつしか、この文体がやけに腑に落ちるようになる。事件の舞台は、当時住人わずか12人の、スマホの電波すらも満足に飛ばない集落、彼らにとって情報といえばまず何よりも、他の村人たちをめぐって飽きることもなく交わされる「うわさ」の数々を指す。筆者はそれらのいくつかに触れる、曰く、加害者の父親は盗人だった、曰く、被害者のひとりはかつて加害者のペットを殺したetc...。しかしどこまで行っても、読者は、そして筆者も、この「うわさ」というウェブがもたらすネットワークのアウトサイダーでしかあれない。真相なるパズルの全体像など持ち得ない、傍観者にできるのはせいぜいが「うわさ」のピースをひたすらに拾い集めることだけ。そのことを自覚的に引き受ける筆致が、ヘタウマとも違って、無性にはまる。

 

 生まれ育ったその地へとUターンした加害者は当初夢見たことだろう、自らが「うわさ」の中心たることを。自宅をリフォームして集落再興の拠点に据えようと図る、そのために例えばカラオケつきのカウンターバーまで用意した。

 しかし実際のところ、彼は「うわさ」の輪に入ることすらできなかった。どころか皮肉にも、いつしか井戸端会議の場として定着したのは彼の家とは目と鼻の先だった。古今東西「うわさ」なるものの定め、その場にいない誰かをめぐってあることないこと交わされる、彼は窓越しにその光景を見ていたに違いない、「妄想」を肥大させるにこれほどの条件はない。

「うわさ」と「妄想」の違いは、必ずしも真偽に由来しない。シェアする誰かがいるか、いないか、ただその一点で両者は限りなく隔たる。「うわさ」の持つ凝集力と遠心力の必然、さらされる外があってはじめて内は生まれる。翻って外に置かれる生贄にあって、「妄想」は修正の機会を与えられぬまま悪化の一途をたどる。

 やがて拘置所で筆者が向かい合った彼は、既に重度の陰謀論に侵されていた、警察にはめられたのであって自らは罪など犯していないのだ、と。彼はひたすら筆者に向けてそのでっち上げの証拠という何かをまくし立てる。筆者はむき出しの「妄想」を前に困惑することしかできない。そして面会の機会さえも既に絶たれた。独房でただひとり、鏡合わせの「妄想」に憑かれたまま、彼は処刑台のその日を待つ。

「うわさ」の輪へと組み込まれてしまうこと、「うわさ」の輪にすら入れないこと。孤独であることの痛々しさ、孤独であれないことの痛々しさ。この死刑囚によって体現されるものは、一介の村社会固有の悲劇を超える。