decency

 

 私がこれを書いているいま、新型コロナウイルス感染症の世界的流行により、感染抑止のためのやむをえぬ手段としての、個人の日常的行動の束縛と監視、私権制限、プライバシー侵害、また為政者の権限の強化に対し、オーウェルの名を出して懸念が表明されるのを、国内外のマスメディアやソーシャルメディアで頻繁に目にする。感染症が沈静化したあと、統制のための監視システムの使用が一線を越えて『一九八四年』の世界と見まがう状況にならないかという怖れがつぶやかれている。

 オーウェルについてはふたつの代表作がとにかく有名で、とりわけ『一九八四年』はこれを読んだことがない人であっても、どのような世界が描かれているのか、それぞれにイメージを持っているのではないかと思う。その一方で、彼には他の小説作品、ルポルタージュ作品があるし、また生涯にわたって、時事的な批評から身辺雑記までをふくむ、膨大な量のエッセイを書き残している。主だったものは翻訳紹介されているが、それらが『一九八四年』とどうつながるのかという点については、必ずしも明確にはとらえられていない。そして彼自身の生涯の紆余曲折がどのように彼の思想形成に寄与したのか、それも見ておく必要がある。

 本書では、以上のように近年新たな関心を喚起しているオーウェルについて、生涯と仕事の軌跡をいくつかのポイントに絞って見ていきたい。私たちがいま生きているこの世界を考えるための思考のヒントとなるように、ここにオーウェルを呼び出してみよう。

 

 ジョージ・オーウェルというその名がペンネームであることすら本書をめくるまで知らない。

動物農場』、『1984』以外の作品を訊かれても、ひとつとして出てこない。

 生没年についても、20世紀の人ということくらいは分かる、という以上の心当たりはない。

 まず間違いなく略歴紹介にも書かれていただろう程度のことにすら気の回らない、超絶オーウェル弱者として本書をめくる。

 

 1936年、ハートフォードシャーの片田舎、ウォリントンにエリック・ブレアは居を構える。間もなく飼育をはじめたヤギに与えた名がミュリエル、この後『動物農場』においても、ヤギにやはり同じ名が割り振られる。近隣には荘園農場manor farmが、そしてその入り口には大納屋great barnが建つ。参照関係を信じるには十分なファクトだろう。

 戦時中にはBBCに勤務する。公用語としてのシンプルさを求めて当時導入が検討されていたのが、少ない語彙と文法による「ベイシック・イングリッシュ」、そう聞けば誰しもが「ニュースピーク」を連想せずにはいない。しばしば彼が同席した会議室は奇しくも「101号室」、「捕縛されたウィンストン・スミスが最後に送られる『愛情省』内の拷問部屋とおなじ番号である」。

 一見すれば、本書のアプローチはこうした元ネタ暴きとも取れないことはない。冷戦下、社会主義へのスタンスをめぐってオーウェル観が二転三転したと仄聞するが、彼のキャリアをたどってみれば、ほとんど議論の余地すら認められぬほどの解答が示唆されているようにも映る。

 しかし、本書はあくまでも、当人の履歴を動かぬエビデンスにそうした議論への終止符を求めるものではない。作者が作品に仮託したことと、作品に書かれていることは、別段イコールで結ばれるものではないし、受け手において読み解かれることについてもまた然り。

 

 そんな中で、異例なほど旗幟鮮明に筆者が自らの読み解きを披露する箇所がある。つまり、『1984』がニュースピークで書かれていないというその事態こそが、何よりも雄弁にニュースピークの不可能性を表している、と説くのである。「許容可能な観念の幅を正統イデオロギーの枠内に限定する、このようなディストピア的言語の構築ははたして実現可能か。じつはオーウェルはこの小説の独特な語り口によって、その不可能性を証している。イングソックの言語観は対象を完璧に指示する『単声的』言語が存在するという仮定に立つが、体制に疑問をいだく主人公ウィンストン・スミスに寄り添う小説の声は、きわめて多声的で対話的な性質をもてちる。権威主義的言語がいかに『単声』たることをめざしても、それがこの小説のかたちによって権威をはぎとられる」。

 本書はオーウェルをめぐる議論が「単声的」たることを決して求めない。ここにおいて詳らかにされるその足跡は、彼が書いたその同時代を露わにすることは多々あろう、ただし、解釈における絶対的な正解の論拠となるものではない。テキスト批判が理性の地平においてなされねばならないのは言うまでもない、ただし、それでもなお、各人によって主張される結論は、例えばどの要素に力点を見出すかなどに従って、しばしば「多声的」なものとして表れずにはいない。たかが小説をめぐって侃々諤々の議論を百出させること、それこそがまさにニュースピークにディストピアを見ただろうオーウェルへの、「人間らしさdecency」に基づくベスト・アンサーを形成する。