富久

 

 もう、実際の高座を離れてからかなりの時間がたっていて、若い落語ファンのあいだでは、「幻の落語家」などといわれていたのだが、僕にとって志ん生は、いつも現役の落語家であった。だから、志ん生が死ぬなんて、考えられなかったのである。むろん、人間の寿命には限りがあり、83歳という年齢が、決して短いものではないことぐらい理解できる。しかし、志ん生に限っていえば、不死身という不可思議なことを可能にするような、妙な能力をそなえていると、勝手にきめこんでいたのだろう。悲しみがこみあげてくるというより、なんだか予定稿を書かされているみたいな空疎な感じがつきまとって困ったものだった。

 

「芸と商売たあ別ですからネ。芸なんてもなァ、一年に二度か三度ぐらいのもんで、毎晩、芸やってた日にゃあ、こっちの体が参っちまいますからナ」。

 そして期せずして学生時分の筆者が、志ん生の「藝」にまみえる。

 その日の寄席の客層といえば、それは粗末なものだった。どうでもいいところで高笑いをして興を削ぐは、若手を聞くに堪えないことばで野次るは。どう見てもそれは典型的な「商売」日和に違いなかった。

 やがて高座に現れた志ん生にもやはり汚い罵詈雑言が浴びせられる。しかし、志ん生に応じるところはない。涼やかに語りはじめる志ん生、瞬間、音が消える。たちまちにして、高座と客席、上と下が画然と分かたれる。

 mediaの語源はギリシャmedium、すなわち中間、とりわけ神と人間を繋ぐ霊媒を指していう。対してcommunicationのそれは共有関係に由来する。フラットなコミュニケーションを拒絶して、垂直的なメディアの「藝」が降臨する。

 

 きいていて、どうやら志ん生が『富久』をやろうとしていることがわかってくると、なんだかこちらの胸がたかまってきて、気持を落ちつかせるのに困った。寄席で、こんなに気持が昂揚したなどは、初めての体験であった。その時分志ん生で『富久』をきいたことがなかったし、桂文楽以外にこのはなしをするひとがいることも知らなかったのである。

『富久』は、三遊亭圓朝が実話を落語化したという説もあるらしいが、しがない幇間の哀感を、きわめてドラマチックに描いた名作である。名作であるから、滅多なことでは寄席の高座になどかからない。まして、何かと藝惜しみする志ん生が、しかも質のよくない酔った客のいる席で、『富久』を出すなどは、まさに信じ難いことに思われた。その信じ難いことを志ん生がやったのである。

 きちんとサゲまで、神経のこまかくはりめぐらされた『富久』を演じ終えたとき、さかんに弥次をとばしていた数人の客が、感動にすっかり酔を醒まされたといった表情で、ひときわ大きな拍手を送っていたのを忘れない。

 はなし終えた志ん生が、べつに格別の藝をやったというのでもなく、勝ち誇った表情をするでもなく、まったく当り前の、それこそいつもの商売をしたのだといった感じの、ごく自然なかたちで拍手に送られて引っこんだのも忘れられない。

 商売をやるつもりで高座に出ながら、つい藝をやってしまった天邪鬼な志ん生に、一度だけでも触れることができたのは、やはり大変な僥倖であったと、つくづく思うのである。

 

 もしこの模様が収録されていたとして、どうにもならない。タイム・トリップなんてものができて実際に立ち会えたとして、どうにもならない。

 テキストは音を持たない、肉を持たない。それゆえにこそ、紙上に「藝」が舞い降りる。

 実に、文字こそが至上のメディアたるその所以を告げる。