マンデラ・エフェクト

 

 本書は、マンデラのハンディな評伝を目指す。今われわれは、偏狭なナショナリズムが跋扈する世界に生きている。他方マンデラは、そのような分断を超え、誰もが想像し得なかった「和解」を成し遂げた人だった。1991年のアパルトヘイトの撤廃から30年、2013年のマンデラの死から8年が経ったが、彼の経験を振り返ることで、偏狭なナショナリズムを超えるビジョンが見えてくるかもしれない。

 だが本書は、マンデラを「聖人」とは見なさない。「わたしは天使ではない」とは、他ならぬマンデラ自身の言葉である。またマンデラの評伝の多くも聖人視を避け、家族関係の悩みなど、あえて彼の人間的側面に光を当ててきた。しかし人間的側面ばかりを見ることは、「マンデラもまたわれわれと同じだった」と、かえって彼の重要な側面を見落とす結果にもなる。

 その側面とは、政治家としてのマンデラである。マンデラは、一貫した思想を説き続けたわけでは決してなかった。人種差別と対決する姿勢は終生変わらなかったものの、それを実現する方法は時々に変化した。こうした「現実主義者」マンデラを描くことが本書の課題である。

 

 本書の冒頭に引かれるのは、クリント・イーストウッド監督映画『インビクタス』。おそらくはこの作品に示されているマンデラ像に概ね彼のパブリック・イメージは近似的に表現されていよう。まずはタイトルの通り、長きにわたる刑務所生活すらも乗り越えて南アフリカ共和国の大統領にまで上り詰めた不屈の人。そして作品においても繰り返し人種間の分断を克服する融和姿勢を訴え、一貫して揺るがぬその信念が伝播して、ついには1995年の自国開催ラグビー・ワールド・カップにおける大番狂わせの優勝を手繰り寄せた。

 しかし本書において描かれるのは、よく言えば与えられた現状の中でベストでなくともベターな道を探求するプラグマティスト、悪く言えばその時々で主張を二転三転させる風見鶏、そんなネルソン・マンデラの実像。ただし同時にその軌跡を追うとき、彼がアピールをかくもころころと変えねばならなかったその事情もただちに了承されよう。

 分断して統治せよ。

 今も昔も語られる封建的支配のこの黄金則の具現を必ずやかつての南アフリカに見るだろう。この国が乗り越えねばならなかったのは、単に白人支配のみではない。インド系、カラード、黒人という区分に加え、ルーツを同じくするものであってもそれぞれの主張に基づく立ち位置の違いによって時に反目を重ねる。果てには「ホームランド」という仕方で個々の部族がテリトリーで隔てられて団結を妨げられる。時々刻々と移りゆくそのパワー・ゲームを不変のスタンスで制御できた、はずがない。国とすらも呼べないようなそんな国をたかがひとりの人間の不屈の意志とやらでまとめられた、はずがない。

 彼が大統領になった、黒人が大統領になった、その限りで南アフリカは変わった。けれども、マンデラのすごろくはそこで上がる。就任前に既にほのめかされていた通り、白人の既得権益に手を突っ込むことはついにかなわずじまい。政治による汚職の蔓延もその主体がANCへと移ったに過ぎない。BRICSも死語と化して久しく、未だ経済成長の足場固めすらできぬまま今日に至る。

 アフリカーナーが自省に目覚めたわけでもなければ、圧倒的な数を持った黒人が声を上げたわけでもない。たぶんそのサクセスを可能にした最大の要因は国際情勢の変動、その中でマンデラ自身にできたことといえば、とてもささいなことでしかなかったのかもしれない。本書内、獄中におけるひときわ印象的なエピソードが他の伝記より引かれる。

 

 私から看守と政治についての話を始めたことは、決してありませんでした。私は看守たちの言うことに耳を傾けました。質問したがっている人に応える方が、効果的なのですよ……「なぜ、罪もない人を攻撃したり、殺したりして、この国にひどい難儀をもたらすんだ?」と聞いてきたら、こう説明するチャンスなのです。「あなたは自分の国の歴史を知りませんね。イギリス人に抑圧されたとき、あなたたちは私たちとまったく同じことをしました。それが歴史の教訓なのです」

 

 マンデラが現に変えることができたのは、おそらくはここまでに過ぎない。

 フィルターバブルで囲われた、スマホの半径数センチなんて、実のところ液晶のその向こう側となんかつながってはいない。聞く耳を持った生身の半径数メートルを変えること、カリスマの称号を得るにはただひとりで事足りる、たとえ歴史に名を残すことはできずとも。