物語る私たち

 

 とりたてて日頃から話すことはなくとも、きっかけさえあれば淀みなく語ることができる「食物語」が、これまでどれほど語られずに蓄積されてきたのだろう。それは膨大な数にのぼるのではないだろうか。いわば「歴史化」されてこなかった「日常の事ごと」の世界である。……

 では、こうした食の履歴書はその人だけの、個人的なものなのだろうか。

 私は前著で、今から100年前の食の風景をみたとき、「食べるという行為は極めて『個人的』なものにみえて、じつは極めて『社会的』なものである」と結論づけた。そうだとするならば、人それぞれが持っている食の履歴書は、唯一無二のものでありながら、同時に互いに関係し、共鳴し合っていると考えることができる。

 それらは同時代を生きた人びとというだけでなく、世代を超えて、そのあとの100年、つまり現在に至るまでの時代の中で、どのような関係を結んできたのだろうか。私たちの胃袋と食べるという行為は、今日に至るまで、はたして「社会的」なものであり続けているのだろうか。そして私たちは「食べる」という行為に、これまでどのような意味を与えてきたのだろうか。

「食べるを語る」人びとの物語に「食物語」に耳を傾けながら、これらの問いに答えうる「胃袋の戦後史」を描くことが本書の目的である。

 

「『個人的』なものにみえて、じつは極めて『社会的』」、1942年生まれ、山形県で米農家を営むSの「食物語」。

 国民所得倍増計画のパッケージには、無論農業も含まれていた。当時の政府が打ち出したのは大規模化と機械化の拡張路線、高校卒業後、通信制大学へと進みつつも就農を選んだSもまた、この方向性に希望を見出し、実践を志したひとりだった。

 ところが現実は思わぬ方向へと進む。

 第一は、Sの周囲で住宅地として農地の売却が進んでいったこと。こうした無秩序なコンバートを抑制すべく、1968年には都市計画法が制定される。

 第二は、「コメ余り」による減反政策の実施。はしごを外されたSの独白。「まさか米を作れなくなるなんてことは、まずおよそ考えられなかった」。この減反はついに所有水田の3割にも及んだ。

 ところが政府はこの後、ブレーキを踏みながら同時にアクセルをふかすような方針に打って出る。「国は日本の農家に市場原理に耐えうるさらなる大規模化を迫るようになる。その面積はSが到達した田畑合わせて6ヘクタールという規模よりもはるかに大きな10から20ヘクタールであった」。

 

「『個人的』なものにみえて、じつは極めて『社会的』」、筆者の講義に出席する学生たちへのアンケート。

 家族と同居する12名の朝食の風景、8人がひとりで、3人は家族と、1人は食べてすらいない。同じテーブルに同じタイミングで着いたとしても、必ずしも同じものを口にするとは限らない。

「『食べる』ことによってあなたは何を得ていますか?」という質問への55名からの複数回答可の集計結果、「幸福感」25、「満足感」19、「栄養」19、「エネルギー・カロリー」16。対して「コミュニケーション」3、「人間関係」2、「団らん」1。「共食」はやがて「個食」へ、「飽食」はやがて「崩食」へ、同じ釜の飯を食うとの慣用句は死語へと近づきつつあるらしい。

 

「『個人的』なものにみえて、じつは極めて『社会的』」、本書のアプローチは実のところ、この命題を裏返すような試みでもある。つまり、「『社会的』なものにみえて、じつは極めて『個人的』」、社会構造の反映を各人の「食物語」に読み解く。「食物語」を問わずとも、あるいは統計を参照すれば、「個人的」なものは自ずと見えてしまうのかもしれない。

 本書の問題意識は、ある面とても残酷なのかもしれない。「個人的」が「社会的」へと還元できてしまうという事態そのものが、私たちというマスを通じて私をめぐる一切の説明が与えられる現代において、私すらも私を共にしないという究極の「孤在」を引き起こしているのだから。

「社会的」なデータすらあれば、「個人的」なるものはその存在すらも、あるいは要請される必要がない。だからこそ、本書はあえて「個人的」の回復を「食物語」に託す。

 

「『個人的』なものにみえて、じつは極めて『社会的』」、ダイエー創業者中内功の「食物語」は、フィリピンにおける従軍経験だった。投げ込まれた手榴弾が今にも炸裂するその刹那、彼の走馬燈を駆け抜けたのは食の記憶だった。

「肌電球がぼーっと照り、牛肉がぐつぐつ煮え、家族がすき焼きを食べている。開戦以来、芋の葉っぱしか食えない日々は続いていた。神戸で育った私は、死ぬ前にもう一度すき焼きを腹いっぱい食いたいと、来る日も来る日も願った。その執念がこの世に私を呼び戻した」。

 そこから私がかつて聞いた「食物語」が触発される。それは私の父方の祖父をめぐる「食物語」。訪ねたのはまず間違いなく1995年一学期終業式の学校帰り、敗戦から半世紀の節目に、戦争体験を収集せよ、という中学の夏休みの課題を受けてのものだった。そのミッションに食という縛りはない、しかし真っ先に伝えようと選び取ったその記憶は、食と強烈に結びついていた。

 中内と同様に、やはり南方に送られた祖父もまた極限の飢餓を味わう。兵站すらもまともに整えられない日本軍の犠牲者として、そのままならば、戦傷死よりもはるかに多いと目される餓死、病死の数字に祖父も連なっていたのかもしれない。森林をさまよい歩くこと数日、緑で包囲された光景にふと黄みがさす。畑なのか野生なのか、ザボンの実が熟れた木を見つける。まだそんな力が残っていたのか、と駆け寄って大ぶりなその果実をひん剥いて食らいつく。水気が喉を走る。甘いだろう。酸っぱいだろう。苦いだろう。

 そうして祖父は生き延びた。戦後、酒屋を個人経営しやがてコンビニへと鞍替えする、ここにおいても極めて「社会的」な「食物語」は反映される。

 どうしたわけか、やけにきっちり覚えている小さな「食物語」を添える。祖父母が用意してくれたその日の昼食は、近所の蕎麦屋の、衣のへたった出前の天丼。

 

「『個人的』なものにみえて、じつは極めて『社会的』」、もうひとりの祖父の戦争をめぐる「食物語」も思い出しついでに書いてみる。ごく至近で暮らしていた上、紙パックの安酒に酔えばたいがい何かしら戦時の話をしていたため、それがどういったシチュエーションで聞かされたものかは一切覚えていない。

 大陸で終戦を迎えた祖父は、戦後史のテキストをなぞるように、ソ連の捕虜となり、そしてシベリアへと送られる。極寒の強制労働の最中のこと、監視役の現地人が不意にボトルを差し出したという。中身は命の水aqua vitae、すなわちウォッカ、それはきっと悪酔いを誘うような、とろりと淀みかすかに苦い、アルコールというよりガソリンに近い何か。今にも凍てつきそうな、口が、喉が、胸が、全身が、燃えるように熱くなる。

 

「個人的」な、あまりに「個人的」な「食物語」。

 昨年、父がその祖父たちと同じところへ旅立った。暴飲暴食に喫煙、いかにも発ガンリスク全開の生活を送り、そして彼が笑い飛ばしていた疫学データ通りに患う。手術や化学療法の命乞いも虚しく各所へと転移、余命1年の告知が下ってほぼ1年、最後はガン細胞が腸壁を突き破り、腹水に悶え苦しみながら、「社会的」な経過観察が示唆した通り、測ったように正確なタイミングで死んでいった。変人を気取りたい凡人、痛々しいまでに平均的な人間は死にゆくさますらどうしようもないほどに平均的だった。

 その二週間ほど前、母に頼まれてオペラを差し入れる。確かにそのケーキ、いけないクスリでも入っているのではと疑うほどに中毒性のある、単なる糖と脂質、チョコレートとバタークリームを超えた何かには違いない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いで私の関わる一切合財に決まって渋い顔しかしなかった彼、というかそれ以前にマウンティングの他に人との接し方を終生インストールすることのなかった彼、客単価数万円の外食すらも漏れなくまずくしてくれた彼をして、兜を脱がせたケーキだった。

 ようやっと半ピースを片づけるのが精一杯、それでも彼がおいしいと思って摂れた最後の晩餐となったらしい。

 

 人は記録の世界を生き、そして同時に記憶の世界を生きる。

 クレカやスマホが吸い上げていくデータセットは、細大漏らさず私たちの揺りかごから墓場までを訳もなく復元してくれよう。計算可能、還元可能なそんな世界のただ中で、すべてのコミュニケーションはbotで書ける、そんなことは分かり切った上で あえて誰かとどうでもいいことを話してみる。

 既に「個人的」という単位すら喪失しつつある時代、それはすなわち共感や常識の底の抜けた「社会的」ですらない時代にあって、「『個人的』なものにみえて、じつは極めて『社会的』」たり得る回路を取り戻す、そのために誰かと話をする、誰かと何かを食べる、そしてそのときの話をいつかする。「崩食」を「逢食」へと書き換える、こんな幸福なレジスタンスが他にあるだろうか。

 実に、優雅な食卓が最高の復讐である。