The Fame Monster

 

「彼の人生をじっくりと洗い直し、ていねいにたどっていかねばならなかったのです」。

 それはかつてどこかで聞いたことのあるような、ファミリー企業の三代記。

 初代は丁稚奉公からの叩き上げ、そのモットーは「価格は忘れても品質は残る」、職人たちを育て上げ、謹厳実直に信頼を積み重ね、フィレンツェの地に名声を得た、立志伝中のドン。

 対して二代目の野望は事業の拡大、そのブランドを全世界へと展開していくことだった。あるいは単に、ひずみが表面化する前に死を迎えたに過ぎないのかもしれないが、何はともあれ、彼は機を見るに敏な直感に恵まれてはいた。

 そしてバトンを受け取った三代目である。育ちのもたらす屈託のなさか、接した誰しもを魅了してやまないチャームとカリスマ性が彼には確かにあった。過度な多角展開をひとまず落ち着けて、選択と集中ブランディングを通じて高級感を取り戻す、当時としては極めて先進的なヴィジョンもあった。キャンバス地にモノグラムをプリントしただけの布切れに我慢がならない、そんな審美眼も――消費者たちとは違って――あった。ただし彼にはとりあえず一点、致命的なまでに経営戦略がなかった。

 かくしてやがて事実上の破綻を迎え、創業者一家が締め出され、金融屋の手に渡る。

 

 と、ここまではいかにもありそうな話。その顰に倣えば通常、かつて名門と称されるも、スキャンダルに塗れ凋落の烙印を押された企業は、斜陽からの立て直しが効かぬまま、歴史の闇へ消えていく。そしてもちろん、こと緑と赤のエンブレムにおいては、その新陳代謝の経路がたどられなかったことは万人が知る。

 普通ならば起きそうもない、でも実際にあったことその一、V字回復どころではない青天井。ほとんど惰性で社内に抱え込んでいた名もなき鬼才の覚醒によりアパレル部門を中心に大ブレイク、3000万ドル水準にまで落ち込んでいた全世界売り上げがわずか数年にして5億ドル、10億ドルを叩き出す。事実上この功績をもって時価総額1000億ドル超えのコングロマリット、ケリングの礎さえも築いてしまったミラクルの立役者、テキサスのはぐれ者、その名をトム・フォードという。

 そして本題、普通ならば起きそうもない、でも実際にあったことその二、それはまるでイタリア・マフィア映画の世界のように、社を追われて2年が経ったある朝、三代目が凶弾に倒れた。

 

 誰が言ったか忘れたが、フィクションはいかにもありそうなことを書く、そしてノンフィクションはいかにもなさそうなことを書く。

『ハウス・オブ・グッチ』、この格言をまさに地で行く。何がすごいといって、無節操なまでにエンタメ要素のことごとくがぶち込まれ、上下巻全編500ページにわたって、つまらない箇所がひとつとしてない。栄枯盛衰のジェットコースターあり、メロドラマのようなラブ・ロマンスあり、親族同士の血で血を洗う確執劇あり、登場人物全員容疑者のクライム・サスペンスあり、醜悪極まる法廷劇あり、生き馬の目を抜く企業買収劇あり、もちろんそのすべてにラグジュアリー演出がちりばめられ、創業者のパターナリズムの陰影が覆う。アンティパストからドルチェまでドカ盛りの、胃もたれを起こしそうなこのフルコース、自制なるものを知るフィクション・ライターには恥ずかしくてそうそう書けない。よしんば試みたところで、並みの腕力ではこの大風呂敷に収拾をつけることなどかなわない。

 

 その中にあってもひときわ心揺さぶられた笑い転げたシーンがある。

 英雄オイディプスが神託に、リア王が道化師に頼ったように、孤独なるこの三代目もまた、心霊師にすがる。もちろん真相はそんな御大層なものではなく単に、耳の痛い進言のことごとくに聴こえないふりを決め込んだ末に、心細さから泣きついたというだけ。ところでこの偉大なる千里眼、「本職は美容師で、素朴な肝っ玉母さん風な人柄」。絵に描いたようなマンマ・キャラのオカルトおばさんと甘ったれたボンクラ経営者のコラボなんて、今日日フィクションならば定型文的に過ぎて駄作の匂いしかしない。

 ところが現実には出てきてしまう、いやむしろ、現実にしか出てこない、出せない。今なお例えばアメリカでは、星占いで飯をたかる輩の頭数は、気象予報に従事する人間のそれに勝る。そして薬剤師の数は、違法脱法含めて、それよりもさらに多い。

 華美をいくら誇ってみても、その裏を一枚めくればセレブリティだってこんなもの。卑しい、醜い、みすぼらしい、つまり人間らしい、他の誰もがそうあるように。

 身から出た錆といえばそれまで、でもこの悲哀、生身の人間にしか出せない。