鏡よ、鏡、鏡さん

 

 奇妙にも、未解明の重大事件について、自身が容疑者として逮捕されることを望み、真相解明が果たされることを期待している男。彼の名は、中村泰(1930年生れ)。かつて警視庁の警察官を射殺し、約20年もの間、刑務所に服役。仮出獄して以降、謎に包まれた生活を送り、01(平成13)年と02(平成14)年、大阪や名古屋で現金輸送車襲撃事件を引き起こし、無期懲役の刑に処せられて、現在、服役中の男である。

 そして07(平成19)年、彼は、警視庁刑事部捜査一課による大阪拘置所での取り調べで、未だ未解決のこの警察庁長官国松孝次]狙撃事件につき、「自分が撃った」と供述。オウム真理教K元巡査長ばかりが疑われ、解決できないまま、時効を迎えようとしている事件で、捜査線上に浮上した最重要容疑者なのだ。(中略)

 本書を執筆する意図は主に二つある。一つは、オウムだけにこだわり、オウムだけしか見て来なかった警視庁公安部が、この15年間、一体、何をしてきたのか、その捜査の実態を明らかにすることだ。それは、捜査失敗の原因を明確にすることにもつながる。

 それともう一つは、重要参考人に浮上しながら黙殺された、中村泰という男の、長官事件における極めて高い容疑性を詳らかにすることである。

 

 ダーク・ヒーローとの称号がこれほどまでにふさわしい人物が、リアルの世界にいようとは。

 まず本書に牽引力を与えるのは、何を措いても、この中村泰なる人物のキャラ立ちにこそある。

 相場として、殺人や強盗といった粗暴犯は、知能犯と両立しない。ところが、こと中村においては著しいハイブリッドを見せる。家でまるで勉強している様子も見せないのに、東大理二にもあっさりと合格。複数の言語も巧みに操り、拳銃などのメカニックにも精通する。いくつもの偽名やパスポートを用いて海外にも拠点を展開、大量の武器も難なく密輸して見せる。かと思えば、東大にまだ籍を置いていた当時、盗みに成功したはいいが質屋に流して足が着きあっさりと御用、その後も窃盗で度々逮捕され、ついには実刑を食らい、その挙げ句には職質をかけてきた警官殺しにすら及んでしまう。

 金をせしめたところで豪遊に溶かした気配はない、すべては来るべきテロの実現のためだった。のちに彼の隠し金庫を差し押さえた捜査員は驚愕する。拳銃、ライフル、手榴弾、防毒マスク、シアン化合物……「〈この男は、一人で戦争でもおっぱじめるつもりだったのか〉」。

 確かに彼はそのつもりだったのかもしれない。彼には暴力革命の夢があった。チェ・ゲバラを仰いでいた時期もある。ニカラグアの革命に参戦する覚悟で南米を訪れさえした。男はガラス越しの筆者に向けて信条を明かした。

「一発の銃弾で歴史を変えることができる」。

 さりとて、彼に銃弾をもって手繰り寄せるべきヴィジョンなどなかった。「極左と極右が苛烈に混交するカオス」との見立てを提示しつつも、筆者は告白する。「これだけ取材を尽くしながらも、私は未だ中村という人間が分からない」。そう、分かるはずがない、保守も革新も何もない、彼にはただ自己目的化した暴力しかないのだから。

 語りかけるべき未来像などないのだから、いくら武器をずらりと揃えたところで、実際に同伴者にできたのは、おそらくはコードネーム「ハヤシ」ただひとりだけ。声に耳を傾けてくれる誰かすら持てなかった彼にできたことは、強迫性みなぎるポエムを日々ひとり綴ることだけ。

 

 事件をめぐり、まるで中村の合わせ鏡のような存在に出くわす。

 そのひとつは無論、オウム真理教。もとをただせばただのヨガセミナーに毛が生えた程度の、ニュー・エイジかぶれ。そんな組織がイニシエーションの最中の死亡事故をもって、ポアに次ぐポアをもってひたすらに自らの暴力性の正当化を図り、そして地下鉄サリンをもって破裂する。この前代未聞のテロリズム、ただしハルマゲドンを謳うにしてはあまりにみすぼらしい。

 その向こう側で樹立すべき世界など、誰ひとりとして構想しない。ただひたすら、限りなく自殺願望に似た破壊思想だけがそこにあった。

 

 そしてもうひとつ、合わせ鏡が捉えて離さぬ像がある、すなわち警視庁公安部という。

 ある公安部捜査員は筆者の取材に胸を張って言う。

「ジ[刑事部ジャーゴン]のやつらは手柄意識から、目先の事件を解決して、子供のように喜んでいる。大きな背景のない単純事件あらそれでいいだろう。でも、俺たち公安部が相手にしているのは、国家の存亡を危うくするような大きな組織だ。だから、長期的スパンで物事を考え、対象をウォッチしている。そうして、未然に大きな犯罪を防ぎ、国民の治安を守ったり、国益の損失を防いでいる。人知れず、目立たぬよう任務を遂行することこそ肝要なのだ」。

 まるで陰謀論者のディープステート語りにつき合わされるような眩暈に瞬間誘われる。もちろん、彼らのヒロイズムを裏づけるファクトなど存在しない。戦前の特高精神そのままに、危機意識のための危機意識、抑圧のための抑圧だけがそこにある。そして必然、数多の人間が警鐘を鳴らし、それどころかあからさまな化学プラントすら備えていたカルト教団に対してすらどうしようもなく無力だった、なぜなら哀れで惨めな彼らデイ・ドリーム・ビリーヴァーはファクトを参照する能力を欠いているから。

 その点を最も如実に表したのが、狙撃事件の時効を迎えての、記者会見での捨てゼリフだった。死刑判決が確定している状況でことこのケースについてのみ白を切るべき理由などない、さる元オウム幹部のこの言がすべてだろう。にもかかわらず、推定無罪原則も何もかもを振り切って、一方的に「オウム真理教の信者グループが教祖の意思のもと、組織的、計画的に敢行したテロ」と警察は断言した。物的証拠も揃わなければ、自らの描き出した筋立ても二転三転し、そのことごとくが支離滅裂に破綻を来す、まさしく事理弁識能力なき公安のありさまを自白するように。

 

 本書の読者は、この磁場に必ずや近親憎悪の三すくみを見るだろう。そしてもちろん、このサークルには国民とやらも加えなければならない。他人を見たら泥棒と思え、テロリストと思え、かくして彼らは徒手空拳のその果てに信ずべきものを見事なまでに失った。

 不安に打ち震える被害妄想の反転としての暴力、まるでそれは統合失調症に果てしなく似て。

 オウムのメンタリティにハックされる、その意味でアフター1995、ハルマゲドンは紛れもなく成就した。そしてまた、暴力のための暴力、中村泰による革命も。

 

 公安部、人呼んでハムを揶揄してジが言い返したことばがある。

「ハムの連中は、膨大な人と金と時間をかけ、対象をただ見ているだけで、かりに目の前で不法行為が行われていても、作戦継続中だとかいって、逮捕したり、事件を解決しようとしない。一体、何をやっているんだ、と言いたい。あんなの警察じゃない」。

 そう、警察じゃない、そして、人間じゃない。

 誰にも手出しのできない絶対安全シェルター、すなわち死へと逃れ着くその日まで、彼らは終生、癒される時を知らない。