全集中の呼吸

 

 私はパフォーマンスにおける3つの重要な柱について説明をする。

 一つはフィジカル。言うまでもなくウェイトトレーニング有酸素運動で鍛えるものだ。

 もう一つは基礎。打撃や投球、守備などグラウンドで練習することだ。

 そしてもう一つがメンタル。……

 これこそが、野球というスポーツの腹立たしいほどつかみどころのない部分だ。ある日突然、物事が当初の計画通りに行かなくなる。突如として、視界不良に陥るのだ。メンタル以外は、ほぼすべての領域で、自分がやらなくてはならないことを定量化することができるのに、メンタルだけはそうはいかない。

 バッティングがスランプに陥っただって? 明日早めに出てきてバッティングゲージに入り、100本の特打をして、打撃コーチに丁寧に指導してもらえばいい。

 思い通りにシャープな守備ができないって? 今日の午後の打撃練習の前に、内野守備コーチに100本のノックをお願いすれば、きっと丁寧に個別指導してくれるだろう。

 シーズン終盤に疲れが溜まってくると、調子があがらなくなるって? 冬のオフのウェイトトレーニングで体重を増やし、有酸素運動を増やして体力を強化すればいい。

 どの課題も、それを克服するために何をしなければならないかがはっきりしている。しかし、ポテトチップスやゲータレードカップが散乱するクラブハウスの中で、これまでよりも格段に才能のある選手たちに囲まれてプレーしている選手が、ある日、長年の夢が自分の手の指の間からすり抜けていくような、言葉では説明し難い苦しい感覚を覚えた時、その選手はどうしたらいいのだろうか?

 実はこれはほとんどすべての選手にとって、「もしそうなったらどうするか」という仮定の問題などではない。「そうなったときにどうするか」を問う、いたって現実的な問題なのだ。

 

 マイケル・ルイスマネー・ボール』にあって、一際異彩を放つ登場人物がある。

 マイナー・リーグにあって将来を嘱望されるドラフト1巡目ビリー・ビーンのその同僚、目を見張るような身体能力があるでもない、一芸に長けるでもない、彼にあったものといえば、ひたむきな献身と日々の鍛錬。選手としての自信と耀きを失い沈みゆく落日の元トップ・プロスペクトと入れ替わるように、有象無象のうちの一人が、セイバー・メトリクスにはあるいは表れることのないメンタルを武器に、MLBのシートどころか、やがて栄えあるシルヴァー・スラッガー賞をも勝ち取る。

 財力のリアリズムを創意工夫をもって克服する、身体の限界を精神によって凌駕する、『マネー・ボール』のメンタリティをもしかしたら誰よりも体現するやも知れぬそのプレイヤー、レニ―・ダイクストラという。

 

 本書の著書、ボブ・テュークスベリーBob Tewksburyの現役時代のキャリア・スタッツをネットで漁ってみる。

 本人が言うことには、変則派左腕でもないのにファストボールの球速は85マイル程度、空振りを計算できる変化球を備えているわけでもない。そのことを裏づけるように三振が稼げる投手ではないのだが、他の面ではとにかく優秀な数字を叩き出し続けている。マイナーとメジャーを行ったり来たり、故障も経験した末に、29歳にして遅咲きの覚醒を果たして以降、9イニング換算の与四球率が2を上回ることは一度としてない。ヒットこそ浴びはするが、被本塁打はその割に優秀。FIP防御率の乖離を見る限り、どうもこの人、バックの守備や運に恵まれなかったのでは、という印象すら受ける。引退年の成績も713敗で防御率4.79とオールド・スクールのデータ的にはイニング・イーターとしての限界を伝えるようなしょっぱい数字になってはいるが、一方でWAR3.3、本書所収のリッチー・ヒルよりよほど優秀、どこのチームでもローテーションは張れる、よほどの怪我でもない限り今日ならば年1000万ドルを下回ることはない契約が提示されるくらいのものを記録してもいる。

 

 ところで本書のテーマは、こうした数字では測り切れぬかも知れぬ何か、つまりヨギズムそのままに「野球の90パーセントはメンタル」。少なくとも筆者自身に言わせれば、これらの実績を積み上げることができた要因は、MLB史上屈指の精密なコントロールやそれを生かした内角攻めでもないし、あたかも自戦をオンタイム実況するように当時の投球をそのまま紙上に再現してみせる、緻密なノートが示唆するような分析力や記憶力でもないし、かつてラトガーズの門を叩いた優秀な頭脳でもない。メンタルと、メンタルと、そしてメンタルが、例えば筆者を、あるいはジョン・レスターを、アンソニー・リゾを、MLBのスターダムへと押し上げた。

「ピッチングの最初の一歩は、いわば体の上の方の階で起きる。つまり、ピッチャーは振りかぶる前に、頭の中でどんな球をホームプレートのどの位置に投げるかを決定し、それが決定したら、そこに投げるための確信を持たなければならない。確固たる確信が持てて初めて、ピッチャーは自分がイメージした場所にストライクを投げられる物理的な確率が大幅に向上する。

 確信あっての実行だ」。

 

 もちろん、こうした筆者の説を実証する術はこの世界に存在しない。目下の課題に集中を促し、自己肯定感を高めるメッセージを発するポジティヴな内なる「リトルマン」と、解説者を自称する巷の結果論小姑のごとき戯言で苛み続けるネガティヴな「リトルマン」とのいずれに身を委ねた場合における比較対照を取るような、マルチバースの行動心理学1万回実験なんてことは、まさか現実にはできないのだから。ラットやサルを用いて報酬系に基づく動物実験を重ねたところで、どこまで行っても、ラットはラット、ヒトはヒト、その内的論理のインセンティヴ作用を紐づける原理はない。

 結果として、本書はどうにも否みがたく、いかにもありがちな成功者は語るの域を出ない。

 しかしそれでもなお、筆者が通り抜けて来た道は、別段ベースボールを嗜むでもない読者にも胸に迫るものを持つ。それはつまりまさしく、目に見える成功か失敗かという退屈な二者択一の他に人生の尺度を持てない者を待つだろう、その悲惨な末路をあらわすように。

 

 完璧を求めて努力する人たちと、それ以下のものを受け入れようとしない人たちの間には、重要な違いがある。完璧を目指すということは、打者がボールをしっかりと芯で捉えられるようになるために練習するのと同じように、特定のスキルを実行できるようになるために可能な限り最善を尽くすことに重点を置くことだ。……

 このような人たちは、自分のパフォーマンスの課題や修正の必要性に対処する能力がある。そして、彼らにそれができる理由は、彼らが自分にはコントロールできないことがあることを自覚しているためだ。……

 彼らは完璧に達成する人間を自分のセルフイメージにはしない。私たちもわかっているように、所詮完璧なんて不可能だからだ。

 逆に、完璧さに捉えられている人たちは、結果を気にしすぎてしまう。その結果、成功に対する見方が歪んでしまい、少しでも完璧でなければ失敗と考えてしまう。

 完璧主義はパフォーマンスに影響を及ぼすわけでなく、、人生から楽しみを奪ってしまう。完璧主義者は非現実的な目標や期待値を設定したり、実現不可能な基準を設定してしまうため、決して満足することがなく、常にフラストレーションを感じ続けることになる。……

 完璧を求めて絶えず努力することで、多くの不安を抱え、常に自分が他人からどう見られているかが気になり、成功よりも失敗を重視するようになる。また、自分のミスを受け入れられないため、パフォーマンスが悪いとすぐ言い訳をする。

 

 メンタルの重要性を諭すことは何ら合理性と違背しない。

 本書が突きつけるのは、実証性の有無でもなければ、信じる、信じない、という問題でもない。いわんやその射程は競技のフィールドに限られるものではない。たった一度きり、どんな人生を望むかという個人の選択の問題だ。

 これでもまだ、息苦しいばかりで決して報われる日など訪れることのない昭和精神主義のストイシズムを選びますか。

 

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