そして、バトンは渡された

 

「僕」の名前は中本哲史、ただしビットコイン創始者サトシ・ナカモトとは別人の。

 そんな奇遇を知ってか知らずか、サーバー・メンテナンスを本業とする社から「僕」に辞令が下される。ミッションは採掘、ただしその対象は仮想通貨、サーバーを遊ばせておくくらいならいっそ、何かしらやらせておけば、小銭くらいにはなるだろうとの算段からだった。

 その目論見は当たり、月に30万円ほどの利益を早々に稼ぎ出す。ランニングコストを差し引いても、20万程度の上がりは得られる、今どきの標準的な20代の手許にはそうそう残らない金額である。佐渡金山が人夫をひたすら使い捨てたのも遠い昔、この採掘ではたとえ24/7働き通しにさせても誰が死ぬこともない。もちろんサーバーだって時に機能不全を起こす。「僕」は同僚間でそれを「心臓麻痺」と呼ぶ。そしてその状態はほとんどの場合、シャットダウンからの再起動でたやすく「蘇生完了」する、人間と違って。

 いや、異なるところは別段ない、人間が心臓麻痺に倒れたら、誰かを配置し直せばいい、そうすれば社会機能は元通り、あっさり蘇生完了するのだから。

「それともまさか君、自分が取り換え不能だとでも思っているの?」

 

「でも何というか中本さんはそういうのを考えさせないところがある」

 こう「僕」を評するのはハンドルネーム、ニムロッド。小説の主人公なるものが往々にしてそうあるように、「僕」もまた物語を展開するためのギミック、「取り換え可能」な狂言回しを割り振られるに過ぎない。透明であればあるほどに、ナレーションの精度は高まる。

 ただし、機能へと解消されたかに見える一人称の「僕」には特徴があった。昂ぶりもなく、痛みもなく、「感情のない涙」がふとした瞬間、左の頬を伝う。この症状が、J.D.サリンジャーよろしく、もはや誰に読ませることもない小説を日々書き貯めるニムロッドを刺激する。

 時折、彼は「僕」にメールを寄越す。まとめサイトから引っ張ってきた「駄目な飛行機コレクション」と、それに付随するコメント。例えばイギリス空軍の失敗機、「ニムロッド」の場合。

「古いものに継ぎ足して、開発期間の短縮と経費削減を狙ったことが、最悪の結果に繋がった。損害も尋常ではなかったし、一から全部作り直した方がよかったのかもしれないね」。

 そう、いかにも「人類の営み」がそうあるように。

 彼の小説が構想するのは、情報化社会の果て、人間が組織化されてITへと一元的に統合された「塔」、その内部において、アバターと人間を区別すべき論拠はひとつとしてない。いやむしろ、今日でさえ経済などもはやコンピュータに回させた方がうまくいく、いかにも仮想通貨が象徴する、肉体を駆使して鉱物資源を採掘することと、電子情報的に採掘したことにすることの間をどうして隔てる必要があろうか。各種リスクを勘案するに、前者の存続を認めるべき根拠を探す方が難しい。ホワイトカラー、ブルーカラーの別もなく、雇用モデルのすべては所詮、「古いものに継ぎ足し」たに過ぎない。その核として残り続けるだろうブラックの連鎖からの解放は唯一、「作り直し」を通じて与えられる。すなわち地上からクラウドへの移行、斉一のスクリプト処理で覆われた、公正で公平で無私の世界、人間を介在させることでは決して成し遂げられることのない。歴史はきちんとヘーゲル理性のその向こう側を用意していた。

 すべて人間は手段であって目的ではない、そしてもはや手段ですらない。

 だからこそ、あえてニムロッドは「僕」の涙に触発される。「僕」の内面とやらははじめから問題とはならない、なぜなら「僕」の作劇上のアイデンティティは「考えさせない」空っぽなことだから。それゆえかえって、ニムロッドは「僕」の理由なき涙に「塔」へのためらい、「最後の人間」として一筋の抵抗の痕跡を重ねる。

 

 ところで、情報伝達の様式を指していうmediacommunicationは、その性質を表すように、いかにも対照的な語源を持つ。前者のそれはラテン語medium、すなわち中間、媒介物、わけても神と人とを繋ぐ巫女、後者の場合、やはりラテン語communicare、つまりは共有、commonと同じ根を持つ。垂直的なmediaと水平的なcommunication

 

 この小説が芥川賞に輝いたのは、2019年の冬。それからわずか1年後、新型コロナの脅威が世界を覆うことなどまさか知る由もない。

 ポスト・コロナで変わったこと、例えばニュース用語としてアメリカの機関、CDCなる略号に触れる機会が否応なしに増えたこと。今となってはCenter of Disease Control and Preventionとして紹介されるこの機関は、実は別の名前で発足している、つまりCommunicable Disease Center、当時においてはマラリアの蔓延予防に設けられたほんの一部署に過ぎなかった。

 Communicable Disease、いかにも皮相な、やがて悲愴な響きを帯びずにいない。「伝染病」との訳語とは別に、communicareをすることそれ自体が病であるかのような。

 いみじくも、病である。たいがいの人間関係はリモートでどうとでも成立する、それどころか、すべての人格はbotで訳もなく記述できる、そしてもちろんより正確には記述するにも値しない、そんな時代にたかがコミュニケーションすらやめられず、災厄を互いに振りまき続けるのだから。アメリカではコロナ起因の死者数が90万人を超えた。この数字は建国以来のいずれの戦死者数をもはるかに上回っている、たかが風邪と一笑したがる類型的クラスターが統合失調症の典型を表すように慄いてやまないあの戦争を、である。

 特効薬でもワクチンでもなく、コミュニケーションのシャットダウンをもって、このウイルス伝言ゲームは間もなく解消される、合理性は一貫してそう命じ続けている。なのに人間はそんなシンプルな源すらも断ち切れない。いじめや差別、ハラスメントも同じこと、最善にして唯一の抑止策は、人間なるオワコンが相互の参照関係の一切と決別することにある。

 ただし、現に減らしたら減らしたで何が起きたといって、肉体を蝕むだろう深酒にオピオイド、孤独は転じて陰謀論への動員を促し、果てには自殺が待ち受ける。

「ぶんというファンの音に混ざって、僕の叩くキーボードの音がかたかたと響く。無機質なサーバーたちがコードに則って演算を続け、世界に機能を提供している。サーバールームには僕の他に誰もいない。今この瞬間、世界から誰もいなくなっていたのだとしても、きっと僕は気づかない」。

 歴史の実証実験は、「塔」どころか人々をこの密室に連れ出すことにすら無残に失敗した。

 ナザレのイエスイスカリオテのユダによって引き渡された、鶏のあの瞬間から変わらない。天の論理は地の重力に屈し続ける。

 一枚のタッチパネルをもって置換可能な世界、そして置換不要な世界。当然にその液晶、誰が触れることもない、表示するものも何もない。誰もが等しく幸福になれる世界とは、誰もいない世界。

 エリ、エリ、レマ、サバクタニ

 そうして彼らは嬉々として、今日も地獄を生きていく。

 

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