主人公の「ぼく」はプロボクサー、デビュー戦こそ華々しく1ラウンドKOで飾りはしたものの、そこから戦績が伸びない。「日本チャンピオンだった漠然とした自分の夢が、日本タイトル挑戦になり、10回戦、8回戦、6回戦とじょじょにグレードダウンし、いまでは『次の試合を敗けない』ことに成り下がっている」。
先の試合のビデオを見返す。主観の記憶としては惨敗だった。敗因はいくらでも思いついた、例えば相手に比べて体幹に劣ること。しかしカメラ越しの映像が伝えるに、決してノーチャンスではなかった。
「ぼくはしっている。つぎの相手がきまるまで、この試合の日の記憶と、いまビデオをみていた真夜中の記憶の中間で生きる。それ以外の人生はない。減量よりなにより、実際これがいちばんきつい。試合の記憶とビデオの自分の動きとの符合と差異、ありえたかもしれないKO勝ち、ありえたかもしれない判定勝ち、ありえたかもしれない引き分け、ありえたかもしれない判定敗けを、パラレルに生きる他ないのだ」。
そんなある日、「ぼく」はトレーナーから事実上のお払い箱に遭う。代わりにあてがわれたのは、半ばリタイア状態の通称「ウメキチ」、ミットを持った経験すらろくにない駆け出しの彼には、ただしひとつ特技があった、つまり完コピ。映像で研究した対戦相手を真似る、スパーの「ぼく」を再現して検討を交える。それはまるで主観の牢獄の住人としての「ぼく」の対極をいくように。
自分を他人のように、他人を自分のように。彼は偽悪的に自身の手口を晒す。
「これはおまえのためじゃなくて、おれがおれのためにやってんだよ。おまえを勝たせたら、おれはこの方法を究めてチャンピオンを目指す。おまえが敗けたらこのやりかたを棄てて、おまえも棄てて、考え直す。わかったか?」
そんな彼への「信頼」に「ぼく」は賭ける。そしてやがて次なるマッチアップが近づく。
F.ニーチェは言った。
「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである」。
録画を見返す「ぼく」が、いみじくもこのフレーズを再現する。見ているのは同じ過去のVTR、アッパーを打ち込まれてKO負けする。しかしその心象風景を思い返す「ぼく」は、その都度そこに異なる映像、異なる「解釈」を見る。
「ビデオのなかでは、まだまだやれる顔をしているぼくは、しかしこのときにはかなり弱気におかされていたはずだ」。
結果を踏まえた上でビデオに向かう「ぼく」は、「やれる顔」にすら「弱気」を見ずにはいられない。リング上の現在進行形の「ぼく」は、本当に「弱気」に苛まれていたのか、はたまた敗北に打ちひしがれる「ぼく」の「弱気」が、「やれる顔」の内面を上書きしたのか。
その因果は、あるいは逆なのかもしれない。「実際にはもうとっくに試合は終わっているのに、どこかでまだ巻き返してくれるのではないかとぼくは、ビデオのなかのぼくを応援している」。あるいは画面に映るのは「弱気」に蝕まれ切った「ぼく」で、「やれる顔」こそがはかなき希望の投影された「解釈」に過ぎないのではないか。
真相は――画面から導かれる「解釈」のみがある、「事実」なるものはない。
本作は屋上屋を架すように同じモチーフを反復する。iPhoneで「ぼく」を撮る映像作家志望の「友だち」がいて、そしてアパートに聳える大木は、ロールシャッハ・テストそのままに「ぼく」の「解釈」を引き出さずにはいない。
孤高の「超人」を志向したニーチェは、「この人を見よ」と絶叫し黙殺され、ついぞ狂気の淵から戻ることなく消えていった、「解釈」の独房でひとり内攻を重ねる「ぼく」を先取りするように。
この小説の書き出しにあって、「ぼく」はその木の風景に「おなじみの寂寥」を照らす。「ありえたかもしれない」世界線を象徴する巨木は、やがて別の仕方で「ぼく」に映らずにはいない。
仮に変わるのだとすれば、「ぼく」のビフォー・アフターに何があった? ウメキチがあった、名すら持たないセフレの「女のこ」には決して芽生えることのなかった「信頼」があった。
『あしたのジョー』はドヤ街を描かずにはいられなかった。ポール・サイモンのThe Boxerはニューヨークを歌い、『ロッキー』はフィラデルフィアを映した。翻って本作には賢明にも、記述されるべき街はない。
この小説はボクシングを書かない、「ぼく」を書かない、鏡のような画面の中の自分に四六時中対峙する他ない、つまりはやがて自壊する他ないポスト・ネット、ポスト・スマホの時代を生きるすべての人間を書く。
冒頭間もなくの描写がいかにも示唆する、対戦を前に相手のSNSをリサーチした、何なら夢にすら現れた、けれども、熟知したはずの彼との間には友人関係どころかまともな会話すら成り立たなかった。
スマホやディスプレイという名の鏡、自己参照の眼差しの地獄を免れて、この目で、この身体で、他の何かを、他の誰かを「ボーッとみるのがいちばんしあわせだろ」
液晶の中の自分は案外、自分に似ない。そして向き合う全き他人は時に案外、自分に似ている。