赤と黒

 

 本書には『謎とき『風と共に去りぬ』』というタイトルがつけられている。映画も大ヒットし、“大衆文学”として親しまれてきたこのロマンス小説に、解くべき謎などあるのだろうか? そう思われるかもしれない。……

 わたし自身、Gone with the Windを自分で翻訳する前であれば、……いささか違和感をおぼえたことだろう。しかし、いまから十年近く前、この大長編の新訳にとりかかったとたん、同作の文体の巧緻なたくらみ、大胆な話法の切り替え、微妙な心裏の表出方法、「声」の複雑な多重性などに気がつき、驚いた。

 無類のページターナーである『風と共に去りぬ』は一般に、若い作家が勢いにまかせて書きあげたように思われがちだが、実際には十年の歳月をかけて、何度もリライトを繰り返しながら仕上げられている。ところが、本作には、その歴史的背景や社会的意義を掘りさげる研究は豊富にあるものの、それに比すれば、テクストそのものを分析するテクスト批評は圧倒的に少ない。

 要は、「なにが書かれているか」はぞんぶんに説かれてきたが、「どのように描かれているか」はあまり論じられてこなかったのではないか。

 それは本作が読み解かれるべき“文学作品”とみなされてこなかったせいもあるだろう。しかし、高尚な“文学作品”と思わせないこと、読者をテクスト分析などに向かわせないこと、それらも作家ミッチェル本人の戦略のうちだったのである。

 

風と共に去りぬ』、本書の著者による新潮文庫版で全5巻、トータル実に1911ページにも及ぶという。他のヴァージョン、原著を含めて、失礼ながらめくろうとすら思ったこともない。映画すらも名場面のダイジェスト番組的なもので多少触れたことがある程度。ところが、そんな私ですらも、スカーレット・オハラやレット・バトラーの名前くらいは知っている、おそろしいことに。

 本書を読んで驚かされる、そら売れるよね、と。

 まず何より“萌え”る、その人物造形。

「隙のない王子」としてのアシュリに対するは、「悪辣な魅力」、「庇護者としての冷めたドS男」としてのレット。「このままマンガに描けそうだ」、というか、『花より男子』の花沢類と道明寺司そのものだし、『タッチ』における上杉兄弟を重ね合わせても、当たらずとも遠からず。「激情的で不道徳で世俗的な悪女」のスカーレットと、「もの静かで清廉で俗離れした聖女」のメラニーといえば、典型的には『東京ラブストーリー』の赤名リカと関口さとみを連想させるものがある。『ガラスの仮面』の北島マヤ姫川亜弓にも一脈ならず通じよう。

 ここまでの国民的メガヒットマンガに限らずとも、各種コンテンツからこの手の相似関係を掘り出したらほとんどキリがない。そして私も筆者も、これらの作り手の元ネタ暴きをしたつもりでしたり顔を決め込みたいわけでもない。傍らに置いてトレースしたわけではない、キャラ造形の共有データベースに時代風俗や主題を絡めて変奏させてみたら、片親違いの兄弟がごとき類似を呈したというに過ぎない。史実を言えば、マーガレット・ミッチェル自身も、こうした意見を度々浴びせかけられてきたのだ、という、「作中人物のだれそれが有名作品のだれに似ている」と。そうした問い合わせに対する彼女の答えがふるっている。

「わたしのキャラクターはたんなる合成物です」。

 ありあわせの使い回しで何が悪い? およそ人生なるものがそうあるように、類型的キャラにシチュエーションさえ与えれば、ロール・プレイのオートノミーに基づいてすべてのイベントは消費されていく。同時代作家たちが新しきものを求めて、「意識の流れ」どうこうと時に晦渋なモダニズムの砂漠に埋もれゆくのに背を向けるように、彼女はあえてヴィクトリア文学のリブートに挑む。勝手知ったるお約束の何が強い、と言ってまず端的に読みやすい、分かりやすい。翻って、今日の私たちが例えば『ユリシーズ』に実験文学という以上の何を引き出すことができるだろう。

 すべて構造は実存に先立つ。いや違う、もういい加減認めよう、実存なんてどこにもない、と。

 

「狂人とはすべての理性を失った者ではなく、理性以外のすべてを失った者である」。

 G.K.チェスタトンの言っているらしいことには。

 

 本書内でも、ひたすら唸らされた指摘がある。

 つまり、メラニーMelanieというその名について。そのルーツを遡ればギリシャmelania、色素メラニンと共通、つまりその意は「黒い」「暗い」。対してスカーレットScarlettはそのものずばり、緋色を指す。「そう、ScarlettMelanieの組み合わせは『赤と黒』を暗示している」。

「自分の理想の半身であり“反身”でもある」。例えば日本作品でいえば『白い巨塔』の財前五郎里見脩二、初期『相棒』における亀山薫杉下右京、数多コンテンツがそうあるように、この小説もまた、その推進力は何よりも、鏡合わせのような同性のふたりが互いをもうひとりの自分として生きることを通じてもたらされる。割り振られた無知という属性がもたらす必然、「いうなれば、スカーレットは“ヒロイン”でありながら一貫して部外者”」、狂言回しでしかあれない。対してメラニーは、「物事の全容を把握し、GWTWの物語を要所要所で動かしている」。だからこそ筆者は断言する、メラニーこそが「裏/真のヒロイン」なのだ、と。

 

風と共に去りぬ』を読んだことがない、そしてこれからもおそらくは読むこともないだろう私ですらも本書を楽しめる、なぜならば、そのストーリー・ラインの骨格に絶えず時系列のねじ曲がった無数のデジャヴュがつきまとうから。

 映画版は――やはりろくに見たことのない私ですら知っている――あまりに有名なフレーズ、“Tomorrow is another day”をもって閉じられる。「明日は明日の風が吹く」と訳せばどこか楽観的な雰囲気が漂うが、どうやらその意味するところは、「明日は明日で苦労の種が出てくるから、いま考えるな」といったことだという。「苦労の種」などテンプレートの繰り返し、「明日」がたとえ来ようとも、昨日今日、過ぎ去りしとある一日の軌跡を逸するところは何らない。すべて作品は、そしてこの世界は、「たんなる合成物」を決して超えない。ゆえに一切は理性をもって計算される。

 あえて今一度繰り返したいこのことば。

「狂人とはすべての理性を失った者ではなく、理性以外のすべてを失った者である」。

Tomorrow”もどうせ同じ日なのだから、なるほど本書は面白い。