シュタルンベルクとともに

 

 森鴎外は、陸軍の軍医だった。つまり、彼の生活は、軍隊という制度の中で厳格に規律化されていたといえる。……

 ベルリンで鴎外はいつも、軍や医学会の人間関係に取り巻かれ、階級と序列の中に身を置いていた。……

 しかし、ミュンヘンでは、お目付け役の上官などはおらず、軍務も比較的緩やかで、国の命令を帯びたエリートという気負いや、身を律する構えをひとまず解くことができた。ミュンヘンにおける鴎外の日記で目立つのが、〈興(歓)を尽くす〉という表現である。ダンスホールで偶然出会った女性と卓につき、「酒を呼びて興を尽す」、学生仲間と遠足に出かけて大いに飲み、放歌し「興を尽して帰る」、日本の友人とワインのグラスを挙げ「興を尽して帰りぬ」、1リットルの大ジョッキを傾け「歓を竭して帰る」、絶景の湖畔で「酒を呼びて興を尽」すなど、いろいろな場所で多様な人々と酒席を共にし、大いに笑い、はしゃぎ、酔い、戯れた思い出が率直に記されている。我々はここに、森林太郎という一人の若者の素顔を見る思いがするのである。……

 これはたぶん、鴎外の全生涯からみても稀有なことなのだ。官の世界に生きた鴎外の人生は、陸軍軍医として、また由緒ある森家の家長として、周囲の人の目を気にしつつ、大きな責任を負い、重圧に耐え忍ぶ毎日であった。確かに鴎外は、文芸・知識人として、また陸軍軍医総監や後には帝室博物館館長として、社会的な名声を大いに享受した。だが、そのために我を押し殺して、人生の多くの局面で自省と断念を強いられもしたのである。その意味では、自己を解放できたミュンヘン滞在は、労苦に満ちた鴎外の人生の中でも、特異な明るい光を放つ〈奇跡の一年〉といってよい。

 本書が目指すのは、このような鴎外のミュンヘン生活を垣間見ることである。

 

 よく言えば保守本流、悪く言えば頑迷固陋。鴎外のパブリック・イメージといえば、たぶんそんなところに落ち着くのではなかろうか。

 高校の授業で読まされる、あの『舞姫』の擬古調をもって、世の大半の人間は鴎外と決別する。もちろんあの雁字搦めの太田豊太郎は、少なからず書き手の自画像を提供しているに違いない。『ヰタ・セクスアリス』という明治の発禁小説も、今日において、当時のコードを知るための史料として手に取ることはあっても、ポルノとして消費するものはまずいない。

 さらにそのイメージを強化するのは、脚気をめぐる例の騒動。その原因が特定されなかった時代にあって、ドイツ帰り、陸軍軍医の鴎外はあくまで細菌に由来するとの持論に固執、対してイギリス帰り、海軍軍医の高木兼寛はいち早く食事に目をつけトラブルを解消するも、鴎外はその実績を根拠なきものと一蹴し、結果として多くの兵士が命を落とす。

 観念論が経験論に屈したこのできごとをもって、かたくなに迷走を深める鴎外を作り出したドイツなる国家もまた、製造責任を時に問われる。しかし、ドイツが鴎外に提供したのは、そうした古色蒼然たる伝統ばかりではなかった。その動かぬ証拠が、『うたかたの記』の書き出しにあらわれる。

 

 幾頭の獅子の挽ける車の上に、勢よく突立ちたる、女神バワリアの像は、先王ルウドヰヒ第一世が此凱旋門に据ゑさせしなりという。その下よりルウドヰヒ街を左に折れたる所に、トリエント産の大理石にて築きおこしたるおほいえあり。これバワリアの首府に名高き見ものなる美術学校なり。校長ピロツチイが名は、をちこちに鳴りひゞきて、独逸の国はいふもさらなり、新希臘、伊太利、璉馬(デンマーク)などよりも、こゝに来りつどへる彫工、画工数を知らず。

 

 ヨーロッパ中から気鋭の若者が集えるこの文化都市ミュンヘンの誇れる王立アカデミーにおいても、そのトップ・プロスペクト、ユーリウス・エクスターの知己を鴎外は得る。媒介したのはもちろん、『騎龍観音』の原田直次郎、「うたかたの記」のエキステルはまさに彼を指している。原田をモデルにしたジャポニスム漂う肖像画も残したこのエクスターは、後にアカデミズムと袂を分かち、ドイツに印象派タッチのスタイルを持ち込み、「色彩の侯爵」との二つ名を与えられる。

 そして原田とのコネクションは、アカデミー教授ガブリエル・マックスとの関係も提供した。奇遇にも、借家の隣人でもあった彼のアトリエを鴎外は度々訪れる。その傑作のひとつが、『解剖学者』。「彼は、従来のように歴史・宗教的文脈において死を劇的に演出するのではなく、科学的な視線に晒されている一体の死骸を描いたのである。少女の身体からは生気が抜け、筋肉は弛緩して、眼は落ちくぼみ始めている。あまりにもリアルで粟立つような屍の描写は、解剖室の中で熱心にスケッチを繰り返してきたマックスならではの技量を反映している。そうした彼の執着と構造のエロスは、もはや死体愛好と呼んでも差支えない領域にまで達している。ここにおいて、『紛れもない死体画家』という感嘆と忌避の念が混在したマックスのアンヴィバレントな評価は確立するのである」。

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 はたと「カズイズチカ」を思う、単に自らが知る日常を糸口に書いたというに留まらない、医師の眼差しがそれ自体として作品の主題となり得る、その気づきにもしマックスとの邂逅が反映されているとしたら――その仮定は牽強付会に過ぎるだろうか。

 

 先鋭的な画家たちとの交流ばかりではない、ここバイエルンで鴎外はこれぞ正統派とも呼ぶべきロマン主義とも接近する。シュタルンベルク湖畔はアルプスの稜線を望む絶景の避暑地として広く知られる。鴎外が深く愛したこの地はただし同時に、ルートヴィヒ2世の入水した終の場所としても語り継がれている。「芸術狂」の「彼は、騎士道精神が生きていた中世ドイツの理想を追い、そのためにワーグナー等の芸術家を招聘し、またノイシュヴァーンシュタイン城をはじめとする豪華な城を次々と建造した。そのうち王は公の行事に関心を示さなくなり、人を嫌って昼夜逆転の生活を送るようになる。こうした状況を見かねた大臣や高官たちは、ルートヴィヒ2世が心を病んだとして王位から追放し、シュタルンベルク湖畔のベルク城に軟禁した。その直後、1886613日、散歩に出たルートヴィヒ2世は、侍医グッデンとともに、付近の湖岸で死体となって発見された」。

 この史実、「うたかたの記」にインスピレーションを与える。すわ鴎外は、自ら水にくぐれるこの王に、はかなき青春を謳歌するミュンヘンの自身を投影し、愛しのマリイとともに別れを告げる。泡沫の夢よさらば、官僚機構に生涯を捧ぐ、そんな秘かな決意声明としての相が本書からふと浮き上がる。