Downtown

 

「わたしは相変わらず全ての事物を反芻して生きている。まったくお手上げなんだ。参った。いつまでも自分の尻尾を追いかけて、ぐるぐる回っているんだ。……わたしは永遠に自分自身の奴隷だ。首の縄は一生外れないだろう。わたしが意気地なしだからさ。自然と馴染みのある香りの方へ向かってしまう。この森から抜け出す手はどうやら無さそうだ、そう一日に十回は考える」。

 この内攻、覚えがあった。遡ること10年前、「わたし」が精神病院に収容されていた頃、医師たちに執拗に記憶を掘り起こされたあの日々とまるで同じ、そうして「また言語能力を失ったように感情を表に出せなくなってしまった」眠れない「わたし」は「頭の中で過去二十七年間を百回以上は生き」ることになった。

 その当時の患者のひとりに、サル山のボスがごとく病棟を仕切る安城さんなる人物がいた。「わたし」は「君」のために安城さんへの報復を果たす。血まみれになるほどに「わたし」を殴りつけた彼女は、目論見通り「ガチャン部屋」に送られる、「ナース・ステーションの一番奥、病棟から最も離れた隔離部屋、真っ白でなにもない、あの部屋」に。

 その頃の「わたし」には辛うじての「命綱」があった、つまり、「文学への憧れ」。長じて「わたし」は「芥川賞作家になれなかった女」になる。その報に触れたらしい安城さんから連絡が届く。入院当時、17歳の胸に秘められたささやかな野心を知っていたただひとりの女と、退院から8年、「わたし」は再会を果たす。相も変わらずの病院暮らし、ただし彼女は白血病に蝕まれていた。

 

 

 

 

17歳のカルテ』のその続き、ウィノナ・ライダーアンジェリーナ・ジョリーのシークエル。

 本書は、実のところ、早々にハイライト・シーンを迎えてしまう。

 精神病院の中で、「わたしたち」はしばしば「レジスタンス」に打って出る。もっとも、フロアをバリケード封鎖することもなければ、スタッフの誰かを監禁することもないし、備品を壊して回ることもない。時計の針が12時を過ぎる頃、夜な夜な病室に集っては、「〈死〉について意見を交わし……翌日は〈生〉について熱烈な論争を起こし、その次の日は〈精神〉についてポツリポツリと降り落ちる小雨のように語り、初めて各々の〈病〉についても話し合えた」。看守の点呼が訪れるまでの小一時間のこの「集会中は、常に首を締められている思いだった。あのとき、わたしは確かに生きていたからだ。ああわたしは生きていた。生を感じることがああまでも幸福なことだともっと早く知っていたなら、人生は味方になり得たのだろうか?」

 世の中とやらに向けてその意味など翻訳できない、けれども、その「レジスタンス」の中においてならば通約可能な言語がある。分かってしまう、だからこそ「首を締められている思い」がして、そして同時に「生を感じる」。8年の時を経て、「わたし」と安城さんはこの体験をリピートする。他の誰かに伝えようにもことばにすらならない、ただし彼女だけは例外だった。病床で時に半ば眠ったような彼女に向けて語り手を引き受けることで、やがて「わたし」の過去が明かされていく。

 その履歴についてはあえて触れない。どうしても一連の構成が、ばらまかれた伏線を回収するという答え合わせの作業に陥らざるを得ないという理由もないではない(ちなみにこの小説、初見ではまず内容が掴めることはない。そして二度目以降に、ああそういうことね、とガチガチとパズルがはまりだす)。ネタバレ禁止という配慮が作用していないでもない。でも、本書においては、そして現実においても、何を語るかはそこまで重要ではない、それよりも誰かと身を寄せ合って同じ時を過ごす、そのことにこそ価値がある。だからこそ数千字が費やされる追憶のシーンよりも、例えばその直後のシェイク・ハンドの数行が圧倒的な重みを放つ。

「彼女の手を握った。空気のように軽くて、しわだらけだった。その手にこもった異常な熱に驚いていると、彼女は手を握り返してきた。電流が流れるように、ひどく優しい気持ちが伝わってきた。君、その瞬間、わたしは最悪の気分になった。安城さんはわたしをちっとも恨んでいなかったのだ。彼女に手を握られ、わたしは知ってしまった」。

 なるほど、このくだりはいかにも喋りすぎている、まるでそれを筆者自ら咎めるように語らせる。

「人が沈黙しているときこそ、最も耳を傾けるべき瞬間なのかもしれないね」。

 ただし現状の「わたし」が冒されるのは別の類の沈黙、「君、わたしはとうとう誰とも口を利かなくなってしまった」との一文をもって本書は切り出される。「耳を傾ける」誰かがいない、だから「わたし」は「君」に向けて語りかけるしかない。「君」というその誰かをめぐる記憶にすがりながら、饒舌な自己参照をもって内攻の地獄を生きるしかない。自傷をもって苛む日々を生き抜いて、また誰かに会えるその瞬間、「沈黙」できるその瞬間を信じるしかない。

 

 あるいはすべて「文学への憧れ」を抱く者は、その性としてバベルの塔の再生を、万人を束ねることばの書き手たることを夢見るものなのかもしれない。歴史に従う限り、たぶんそんなものはない。

 ただし、誰と顔を合わせることもない、その絶望の淵で吐き出されることば――あるいはそれは沈黙かもしれない――は、時に案外通じる誰かを見出す、少なくとも文学はその幻想、いや理想を描き出すくらいのことはできる。崩れゆく世界の中で、もはや会話の明るみに戻ることのないモンスターに囲まれながら、「生きよう。いつまでも。こうして君と一緒に生きていこう」。

 

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